2011/12/23

君は薩摩剣士を知っているか【2012/3/30更新】

■追記
この記事は去年12月23日に書いたのだが、それから3ヶ月。
薩摩剣士隼人の人気は過熱し続け、その勢いは加速し続けている。
そして、一話当たりの時間が長くなっている!!!!
(2012年3月30日)
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今、鹿児島では「薩摩剣士隼人」がアツい。

薩摩剣士隼人というご当地ヒーローなのだが、今年の秋から特撮(?)として放映されている。
名前は聞いていたが実際に見たことはなかった(僕の家にはテレビがない)

ちょっとあるキッカケで、公式にアップされたYou tube上の動画を見た。
衝撃だった。

カクカクした戦隊的なフォルムの薩摩剣士隼人と、敵対(?)するぼっけもんのゆるさ。
このような異なる価値観を同じ画面に混ぜ込んでいいのだろうか?
2Dと3Dを混ぜるような感じ。いや、なんかトーンが違う。

ぜひ見てほしい。特に、鹿児島以外の方に。

なんかもう衝撃なのだ。
引き続き、動画がアップされ次第、僕はアーカイブとしてまとめていきたい。

各話10〜15分です。
どうぞ。

第一話「だいやめをすっど!」


第二話「黒豚のイッダマシイ!」


第三話「アマンでクロス!」


第四話「すっぱいうんまか!」


第五話「ガラッパがRAPPER!」


第六話「ラーメンたもっど!」


第七話「ちゃいっぺくいやい!」


第八話「もぜしがうとちょっ! 」


第九話「かんさあはUMA!」


第十話「カゼノコトノハ」

2011/12/22

Think たこやき大学

たこやき大学 ソーシャルネットワーク科というイベントに参加してきた。
2時間のセミナーに参加費5,000円。
「え?それなんか怪しくない?」と思うのが、普通の反応だと思う。

僕も最後の最後まで「5,000円、高いなぁ」と思い、迷っていたのだけど、
「年に1回だし、ま、いっか」と思い、ドタンバ参加してきたというわけです。

結論から言うと、5,000円の価値はあった。

1.考えていたコミュニティのことが整理できた
→レイヤーで見る多層社会らへん

2.規模感の手がかりがあった。
→規模感と想像力の図示がよかった

3.思考の材料をもらい、脳のリフレッシュになった
→最近、視野が狭くなりがちで、新たな視点をもらえた


以下、思ったことを箇条書きで書いてみる。

・評価経済社会へのシフト
お金をもっていることの価値が相対的に小さくなってきた。
根底にある考え方は「多くあるものを使い、足りないものを節約する」が美徳という感覚。
今、溢れているのは「情報」、情報をどう使いこなし、「信頼」を貯めることができるか。
その信頼を得ることを評価と呼んでいるように感じた。

・ページランクを人に置き換える ヒューマンランク的発想
Googleが定めているページランクの概念は、評価の高いページからリンクされていることが高評価につながるという仕組みである。つまり、これは人にも置き換えられる。
素晴らしい人は素晴らしい人を知っている、という考え。
ただ、これは今までにも存在した概念というか、そうなっている。
ソーシャルネットワークはそれをオンライン上に可視化した。
つながりを明確に、透明にした。
例えば、ツイッター上のやり取りは、閉じられたメールと違い、開かれたオープンなコミュニケーション。誰もが目撃することが可能。


・それらを統合した社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)という概念
人の関係性が変容したり、価値観が変化していく中で、重要な資本は
貨幣から信頼や人間関係といった社会(コミュニティ的な意味)を構築する要素に変わっていきつつある、という話。
もちろん、貨幣が要らないという話ではない。
実は、ソーシャル・キャピタルは田舎の方が多いとされており、簡単に言うと
「田舎は近所のじっちゃんばあちゃんが米たら野菜やらくれるので、お金を使わなくても
そこそこ生きていけるってこと」に近いと思っている。

・ほんで、どうする?って話。
このイベント自体、使っている言葉は基本的に抽象的な言葉が多く、
ところどころオモシロ具体例が出て来て、皆さんついてきてくださいね!という感じ。
僕はめちゃおもろかったけど、背景情報を共有できていないと多分ついてこれない。
話の内容がつながっているので、躓いてしまうと落ちこぼれてしまう。
たこ大は意外と厳しい。

フォロワーが2万にいても、価値はないわけですよ。その数字自体には。
誰とどんな関係にあるか、いわゆるエンゲージメントがソーシャルの鍵。


僕としては、
・やっぱオモロイかどうかがすごく大事で、常に「これはおもろいか?」の視点を持つべき
・多層化しているレイヤーで自分のポジションを理解し、異種のつながりを創り、価値につなげられるか
・規模感を掴む想像力を持つ・磨く・試す
・もうちょっと「ツッコまれる」
・ブログに自分の蓄積をつくり、分身としてウェブに常駐させる
みたいなとこが結論かなー。

でも、やっぱり良かったのは知的刺激で、あの後
本屋に行き、二冊買ってしまった。

だから、僕らはこの働き方を選んだ 東京R不動産のフリーエージェント・スタイル
グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

なんかまだ漏れていることがいくつかあるような気がするんですが、
思い出したらまた書こう。

気になる人はアーカイブをどうぞ。
500円と有料ですが、それぐらいの価値はあるはずです。

2011/12/18

ボランティアの映画を見て、思い出したこと

「マジでガチなボランティア」という映画を見た。
簡単に言うと、ギャル男がカンボジアに小学校と医療所を立てるボランティアの話である。

大学生ならば、刺激を受けたかもしれない。
だが、今の自分にはあまり刺激はなかった。正直なところ。

ただ、見ていて、その学生団体という組織の運営の難しさや葛藤には非常に共感した。
ちなみに僕はイベントサークルが嫌いである。
なんとなく途上国支援も嫌いである。

でも、代表者の葛藤はよくわかった。
というか、自分の体験を重ね合わせて見ているから、
正確に言うと、映画の主人公の葛藤を理解している訳ではなく、
学生時代、自分が代表をしていた頃を思い出しただけなのかもしれない。

金銭的な対価のない、ボランティア組織はモチベーションをうまくマネジメントしないといけない。
メンバーがどんな人で、何を求めてこの組織にいて、どうなりたいのか。
代表というリーダーはメンバーに対する深い理解が必要となる。
金銭的な対価の発生する仕事や会社でも、それは同じなのだけど、
お金という尺度、インセンティブの存在は大きい。

学生時代、ビジネスプランや政策を考えて、フォーラムという形でイベントをしていた。
わずか500円の参加費を取るかどうかで議論した。
冷静に考えると、そんなに議論することではないのだが、
その議論に至る背景があったし、そこで意見対立することは組織としての活性化になったと思っている。
少なくとも、「代表がトップダウンで決める組織ではない」ということは周囲も理解してくれていたと思う。
そして、あの意見の奥にある価値観やモノの見方をぶつけあったことは無駄ではなかった。


思い出した。
社会人の先輩が言っていたこと。
「リーダーには、孤高という名の孤独がある」

僕はそのとき、高みにいけたかどうかわからないけど、
周りには理解できない苦しさや孤独はあった。

リーダーとして、それを乗り越えることが成長につながるのかもしれない。
組織のリーダーではなくても、自分が自分自身のリーダーであるという考えもある。
名著「リーダーシップの旅」には、リーダーシップの第一歩は「Lead the self」だと書いてある。

僕はこの言葉を時々思い出す。
今の自分の行動は誰によって導かれているのだろう?
自分は本当に自分で考え、目的を達成するために動いているのだろうか?
考えているのだろうか?と。

小学校をたてることが偉いことだろうか?
行動したことが偉いのだろうか?
または、ボランティアをやれば良いのだろうか?

違う。
大事なのは、自分が思ったこと・考えたこと・疑問に思ったことを
形にしたということではないだろうか。

ある教育の考え方に、コンストラクショニズムというものがある。
人は何かを創る時に学ぶというものである。
ものを創って、そのものに意味付けをする。
デザイン思考における、プロトタイピングも同じ考えだという。

実は、考えるよりも創った方が学べるのである。
状況によっては、行動も一緒かもしれない。

本当に良いことかどうか、やりたいことかどうか、
まずはやってみる。
その後で、方向転換するなり、改善するなり、やめるなりする。
ただ、おっさんにもなってそういうことをしてたら、怒られるどころではすまない。
なので、ある種若いうちの特権のような気がする。


自分の数年前を振り返って、
なんか青臭かったなーとか、
無駄に尖ってたなーとか、
思ったと同時に、
「今の俺は、ちゃんとやれてんのか?」
と昔の自分に聞かれたような時間でした。

上映された皆様、お疲れさまでした。

2011/12/11

所属するコミュニティの性質

大学の先生と新入生向けの授業について打ち合わせをしていて、
「学生がサークルやバイトに没頭する前に、
こちら側(学業や大学の活動)に引き込みたいですね」という話になった。

何かに取り組んだり、時間を注いだり、
それが遊びでも学びでも趣味でもいいのだけど
所属するコミュニティの性質がその人に大きく影響を与える。

その人自身がコミュニティを構成している一部でありながら、
自分の合理性や思考よりも集団という無名の思考や性格によって、物事が決まり進んでいく。

対比的に考えると、いわゆる組織には、役割や役職があり、
指令系統があり、ガバナンス(統治)が機能する。
群れのボスがいて、中ボスがいて、下っ端がいるという構図。
実際はどうかとして、ツリー状の組織図がそういうイメージであり、具体化したものであるといえる。
コミュニティはツリーでは整理しずらいし、サークル状になると考えられる。

「サークル活動のサークルはこういう意味合いから来てるのか!」
と思って調べたら、「友達の輪」から来ている説が有力だとのこと。脱線しました、失礼。

社会学的には、特定の目的を持った集団をトライブ(族)と呼ぶ。
パンクなどの若者が音楽以外にも共通性を持つことを
イギリスの学者が発見し、トライブと名付けたとのこと。
コミュニティの志向性が似ている場合は、トライブと定義した方が的確かもしれない。

言葉の定義はさておき、集団の性質が似ている場合はその活動に没頭できる状態だと考えられる。
しかし、性質が似ていない場合はコミュニティの質がおかしくなっていく。
例えば、大会優勝を目指すテニスサークル、
楽しむことが目的のテニスサークル、レクレーションの一つとしてテニスをするサークル。
全て、テニスサークルと言えるが、実態や性質は異なる。

どのタイプもあっていいのだが、そのサークル(コミュニティ)の性質と違う人が
入ってきた時にどうなるかが非常に問題。
部長が新人を厳しく指導し、優勝を目指すように諭すのか?
うちは遊びだから、本気なら違うサークルに行けと追い出すのか?

これはスポーツだから、する“こと”や目的が明確だ。
ただ、ゼミや友人関係などはもっとふわふわしたものになってくる。
“こと”や“目的”といったコンテンツよりも、そこにいる“人”(とのコミュニケーション)が
そのコミュニティの性質を作っていく場合が多い。

挑戦する人の集まりにいれば、挑戦のハードルは下がる。
堕落した人の集まりにいれば、堕落のハードルが下がる。

コミュニティから出ていくという選択肢がある。
それが出来れば、一義的には良い。
しかし、一方で自身が変わらなければコミュニティは変わらないことも事実だろう。

最近面白くないんだよなーという人は、面白くないコミュニティにいるのである。
「面白くない人が集まってこないんですよね、私のまわり」
「私は面白くない人たちと付き合っているんです」
と言っているようなものである。

ただ、「あなたは面白くしようとしていますか?」という主体の有無を問うべきだと思う。
所属するコミュニティの性質が自身に与える影響が大きい。
逆に、コミュニティを形づくる一要素としての自分がコミュニティに与える影響もまた大きいと言えるだろう。

リアルのつながりをたどったコミュニティはサークル的であり、コミュニケーションが性質を作っていくが、バーチャル(WEB)のつながりを辿ったコミュニティはトライブ的であり、コンテンツが性質を作っていくパターンが多いと思う。
このコミュニティをコンテンツ×コミュニケーションで考えるのは、勝手な僕の理論なんだけども、
何をする集まりなのか(コンテンツ)と、どんな関わりなのか(コミュニケーション)がコミュニティの要素であると思う。
あと付け加えるとすると、どんな背景を持っているか(コンテクスト)だろうか。

相互に良い影響が与えていくコミュニティをどう構築していくか。
主体的な学び、学習・成長の加速にとって、とても大事なことではないかと思う日々です。

2011/11/02

忘れられない夏の物語

明日(11月2日19:00〜)のMBC(南日本放送)「どーんと鹿児島」にて
社長は高校生~鹿児島修学館高校 文化祭~」という1時間のドキュメンタリーが放送される。

















今年の夏、このプロジェクトを通じて、僕は約70名の生徒たちと関わった。
進学校でありながら、学力だけではない「社会人基礎力」を育成する高校。
その取り組みは先進的であるが、それ以上に学校現場では
そういった社会人基礎力の育成が求められていた。

この「株式会社プログラム」では、リアルな会社を体験できるように徹底的に作り込んでいる。
さらに、生徒にとって大きいのは、多くのことを生徒自身が決めることだと思う。
売る商品、生産方法、価格、人材の配置、給与、利益分配、自分たちで全て考えて決める。
言うなれば、生徒自身で問題用紙を作って、答えを書いて、採点までして、反省までする。
付け加えておくと、これはただの模擬店ではない。使うのは“ヒトのお金”である。
そこには自由だけではなく、責任が伴う。どんぶり勘定の模擬店とは本質的に異なる。


社会人基礎力では、考える力、行動する力、チームワークの3つの要素をあげている。
今回、生徒たちはそれだけでは測れない、大きなものを学んだ。
それは社会がどう動いているか、会社がどう回っているか。
そして、その根本には「ヒトは一人では何もできない。だから、力を合わせる」という考えがあることを。



僕は外部の人間として、このプロジェクトに関わるなかでずっと考えていたことがある。
「10年前の自分が受けたい」と思えること。

押し付けられたことはいずれ忘れてしまう。
だが、自分で取り組もうと決めたことはずっと忘れない。
その差を主体性という。
主体性のない教育には先はない。

だから、迷う生徒たちを目の前にしても、
彼彼女らが考えて結論を出すまで待つことにしていた。



仲間とともにゼロから作り上げた会社。
伝えることがこんなにも難しいと知ったこと。
自分たちの意見を持って、行動する姿勢。
悔しくて涙を流した放課後。
自分の力が及ばずに、うなだれた日。
考えていたことを現実にできたチームワーク。
急なトラブルにも対応できた冷静な判断。
株主と社員の間で揺れた感情。
初めて給料を手にしたこと。





迷い、立ち止まり、考え、ぶつかり、黙り込み、
前に進むことをやめなかった彼ら。


その彼らが辿り着いた結論、一つの物語をぜひご覧ください
(鹿児島県内在住の方しか見れません)


流行言葉から読み解く

今はグローバルの時代だという。
シェア、ソーシャル、つながり、コミュニティ。
なぜ、こんなにも“関わり”について表す言葉が反乱しているのだろう。
その根幹にあるのは何だろう?
僕は、自分と他者の関係性なのだと思う。
それは「自分がどう考えるか」と「他者がどう考えるか」の差を摺り合わせていくことだと思う。

しかし、しばしば「どう考えるか」以前に、
「自分は何者か」「自分はどう思われているか」という問いに苦悩してしまう。
その問いは必要なのだが、そこで立ち止まっていては「自分」は広がっていかない。

自分を広げるとは何か。
自分には、大きく4つの自己が存在する。


Hiddenの領域を他人に理解してもらう「自己開示」
Blindの領域を他人から教えてもらう「フィードバック」
この2つを通じて、Openの領域を拡大すると「自己」と「自分」の認識のズレが小さくなる。
この認識の修正は自信につながる。
逆説的だが、自分に自信が持てないのは信じているが本当かどうかわからないからだ。
ましてや、その対象が「自分」という意識のなかにあるものでは尚更難しい。
なので、他者とのつながりのなかで、自己をより明らかにし、自分=自己につなげていく。

つまり、関わりとは自分と自己の証明がスタートである。
その先に、協力や恊働が生まれる。
いや、協力や恊働を経て、そこに辿り着く。
そちらの方がずっと正しい気がした。

2011/10/23

「食べること」はコミュニケーション





改めて、「食べること」はコミュニケーションなんだなと再確認したCM。
コミュニケーションの積み重ねが絆になっていくのだろう。
家族は「食べること」を重ねて、“家族らしく”なっていくのかな。

そんなことは抜きにしても、良いCMだなー。

2011/10/18

絶え間なく進んでいく

週末にはまとめて、何かを書きたい。
けれど、今思ったことは書き留めておく。

・子どもには体験をさせ、大人は意味づけをせよ。
自信を持たせることではなく、自信を保証する。
意味づけは一つ上の世界を知っていれば簡単だが、そうでない者にとっては難しい。
※もちろん、誰しもが「そうでない者」になりえる

・まずは承認を。
アイデア、意見、主張、その前に存在を認める。
話を聴く、向き合う、時間をともにする、些細な変化を確認する。
実はすごく大事なのかもな、と。

・他者のフレームワーク。特に社会という見えない者のフレーム。
みんなが使っているからと言って、そのフレーム(枠・視点・仕組み)の正しさは保証されていない。
集合知は必ず機能するわけではない。むしろ衆愚。
自分で考えた結論に対する恐れと、周りと同じことを選択する安心はリスクで見ると、逆。

・ワークショップ。むしろ、プレイショップ。
プレイ(遊び)の要素が大事、ゲーム性も。
ゲーミフィケーションを調べていて、非常に面白いと感じた。
学びと遊びはうまく組み込む。
学びを遊びの中に組み込む。遊びを学びの仲に組み込む。
学んだことを遊べるか?遊んだことから学べるか?

・経験の短期価値と長期価値
すぐに「よかった」と思える経験と、時間がたって振り返った際に「よかった」と思える経験がある。
短期的に表出する価値においては、「だまし」の要素もある。
経験をしかけた方も、経験をした方もだます側にまわる。
無意識にポジティブに紐付けてしまうから。つまり、確証バイアス。




この2ヶ月で、中学生・高校生・大学生・社会人の「教育(学習)」に関わっている。
もちろん、その属性より、個々のコミュニケーションが大事である。
教えるほどの人間ではないので、一緒に学ぶべく関わるというスタンスでありたい。
それは自分が一番の学習者でなければならないことと同じだ。
そこは見失っちゃいかんよね。

2011/09/23

答えを正解にする


唯一の正解などない。
自分が持っている答えをどれだけ正しくできるか。
今、持っている答えを正解にしていこう。
頑張れ。

そして、自分も頑張ろう。
人生にリハーサルはないのだから。

2011/09/17

なぜ問題を解決できないのか

最近、問題解決能力に関するワークショップを二度ほど企画・実施した。
片方は大学生向け、もう一つは社会人向け。特に後者は20代~60代と年齢幅があり、参加者は多様。
使える時間が違ったので、内容の細部はけっこう違うのだが、
どちらもそれなりの評価を頂いた様子。

内容を簡単に説明すると
論理的な問題解決について
1.問題の設定
2.原因の構造化
3.打ち手(解決策)の創案
のような流れで説明しながら、それぞれにワークを挟む。

簡単に言うと、
1.問題は何か?
2.それにはどんな原因がどう関係しているか?
3.根本的な原因を解消するアイデアは何か?
ということ。

表現を平易にすると、実はけっこう当たり前のことだったりする。
この流れに則ると、問題が解決できない場合
1.取り組む問題を間違えている
2.原因を把握できていない
3.解決策が間違っている
の3つに集約できる。

しかし、実際に「問題を解決できない」状況を見てみると、
「そもそも問題を解決しようとしていない」であったりする。
スキル・技能ではなく、マインド・心持ちが足りていない。
さて、どうしようか。この「問題」

「問題を解決しよう!」と思わないのは何故か?
それは問題意識がないから、なのか? そもそも問題意識とは何だろうか?
問題を意識すること、問題を意識する思考・姿勢といったものだろう。
「問題=理想-現状」なので、「理想を描ける」「現状を把握できる」という思考や認識する姿勢のことだろう。しかし、それらは問題定義のスキルであって、問題解決の意欲とは別の話である。

これまた意欲というわかりにくい領域なのだが、考えていくと
人が動く際は「したい」か「しなければならない」のどちらかである。
つまり、意欲にはポジティブなメンタリティとネガティブなメンタリティしかない。
できることなら、前者の方で主体的、創造的に取り組むほうがよいだろう。
では、「したい」と思えない人はどんな風になっているのか。
「したい」と思えない人の多くは、問題を回避していたり、解決を誰かに頼ったりしていることがほとんどである。そして、例外なく自信がない。
そもそも問題を解決した経験がない・少ない、と考えられるし、
壁にぶつかって突破した経験、成功体験が少ないとも言い換えられる。

学校のテストと違って、問題解決には100点が存在しない。
何を以って成功と言うのかはステークホルダーが決めることである。
「成功体験が自信になる」というのは、その経験だけでなく、枠がない中で試行錯誤をした結果
何らかのことを為し得たというプロセスに対する自信なのかもしれない。

意欲がないという状態は、問題を解決した時の状況を想像できないことではないだろうか。
もちろん、それは成功に限らず、失敗したときの悔しさかもしれない。
誰だって失敗はするし、そんな万能な(問題解決の)スキルはない。
失敗を恐れずに挑戦できるか。
それは目の前の壁やそれにぶつかる際の痛みを越えた先に、
美味しい果実があると知ることが大切なのかもしれない。

どうしても基本的なことは「教える」傾向が強くなってしまう。
それをうまく学習して、活用してもらわないと、
すぐに記憶から消えるし、ただの情報として処理されても意味がない。
いかにして、自分ごとだと意識してもらえるか。
問題を回避する姿勢から、解決する姿勢に切り替えてもらえるか。

その入り口をうまく創りだす必要がある。
結局変えるところ、引き出すところは、
マインドセットやモチベーションだったりする。

これも一つの問題解決だな。もうちょっと考えてみよう。

2011/08/29

仕事とは何か




仕事とは何だろうか

誰かの役に立つこと
誰かとの約束
付加価値を結ぶ契約
働き
傍を楽にすること

仕事とは信用なのか?
お金は信用を具現化したものとも言える。
ならば、お金を介した取引、つまり仕事は信用の交換と言えるのか。

社会における、仕事の位置づけ。

抽象概念において、抽象的な言葉をおいても
的を射る答えを見つけるには至らない。

個別具体的な仕事は全て違っている

例え似ているものでも、取り組む人によって質が変換するし
同じように扱えば、それは質を落とす
関係することは全て違うのだから

仕事はその状況における関係性に強く影響を受ける
というよりも、その関係性の構築に作用するものではないか

付加価値とは、何かに対して価値を付加することであって
付加される対象を指す言葉ではない

付加されている対象とは、AとBの関係であり、
その関係性を変質させるものが仕事

それには信用が大きく、強く関わる

仕事とは作業ではない
作業は仕事を構成する一部であり、例えば思考も同じである

仕事というのは、相手との関係性を進化させるものであり、
必ず自分以外の当事者がいる

それは誰か
そして、何を求め、どんな役割を期待しているか

プロセスの共有
スタンスの確認
アウトカムの合意

ちゃんと関係性を良くしようとする準備はできているか

あなたの仕事は誰のために
あなたの仕事は誰をどう幸せにするのか


2011/08/07

じっくり考える日を過ごす

ひさびさに完全に一日オフだった。
というのも、土日は休みではあるけど、最近ほぼずっと何かの運営に追われていた気がする。
※楽しんでいるのだけど、テンションをあげている状態が続いていたという。

午前中は片付け・洗濯など諸々を済ませ、
昼からガーデンシネマへ。

気になっていた「100,000年後の安全」を鑑賞。



結論から言うと、寝てしまった。
内容に関しては興味深いのだけど、映像作品として単調というか、
まぁドキュメンタリーだからしょうがないのかな。

問題提起をしている作品なので、映像としてのクオリティを求めるのは筋違いかもしれない。
というか、単純に僕の眠気が強すぎたのかな。

原子力エネルギーについては前々から考えている。
学生時代に、環境とエネルギーをテーマに勉強会をしていたり、中学生のときに原爆を調べまくったりしていたので。
推進派・反対派があるものの、まずは現状の対応だよねっと思う。
セシウムが拡散してたり、放射線・放射能の測定情報が不明確だったり。
起きた問題に対して、解決策を打つべきフェーズだと思う。

冷静に考えると、原発がメルトダウンしているんだよね、我が国日本は。
スリーマイルやチェルノブイリを調べたら、事態の深刻さがわかると思うが。
と言いつつも、自分もどこまで理解できているのだろうと不安になる。
311以降、危険に対する感覚というか、起きている問題の感覚が狂っている気がする。

押せ寄せる津波の映像を何度も見た後、僕は海に近づくのが怖かった。
考えた結果というより、動物の本能として危険に対して反応していたのだと思う。

東北・関東の地震がおさまらない。
他地域でも小さな地震がいくつかあった。
なんかイヤな感じだ。


で、話を変える。

映画を見た後、ドルフィンポートのクーツカフェに移動。

抹茶フロートを飲みながら、本を読んだ。
リーダーシップの旅 見えないものを見る
4年前に発売された本で、当時読んだ本。
簡単に言うと、「リーダーシップとは何か」ということを論じている本。
ただただ深く、その比喩に心を鷲掴みにされる。

本を読みながら、考え。考えては読み。
その連続のなかで、本を閉じ、頭を整理する。

2時間くらい、外で風にあたりながら、じっくり考えていた。

実はここのところ、いろんなことに関わっているがために、
たくさんの人といろんなコミュニケーションをとる必要があった。

たくさんの人と言っても、年齢や職業、その場の意味、役割など様々で
その度に自分のとるべきコミュニケーションが変わって来る。微妙に。

それでちょっと「ああ、ちょっと人と話したくない」という状態になっていた。
精神的なストレスというより、本来の「めんどくさがり」が顔出したくてしょうがない、といった状況。

それで今日は最低限の関わりしかしてない。

が、やはりそれは正解で、とてもリフレッシュでき、エネルギーが完全に充電された。気がする。
というか、お腹いっぱい食べたから、エネルギーが回復したのかも。

で、やはり自分がしたいことを突き詰めて考える必要があると感じた。

そして、再来年の春には帰ろうと決めた。
そこまでにこの土地に、この土地に住んでいる人たちに、顔の見える誰かに
エネルギーを注いでいきたいと思った。

2時間は考える時間でもあり、自分自身と対話する時間でもあった。
よし、燃えよう。燃えあがるぞ。

2011/07/31

はじまりはじまり

2011年7月31日。

待ちわびていた日。
何人の人が待っていたのだろう。ぼくもその一人。
これからどれだけの期待を実現してくれる場所なのだろう。
どんな存在になるのだろう。

まちのいろんなところに居場所をつくって、
いろんなひとの出番ができて、
色とりどりの結びつきが生まれてくるんだ
と思う。


サポーターという役割を借りて
ぼくもその夢を少し担いたい。

はじまりはじまり。


2011/07/16

書きたいこと、考えたいことが流れる前に

最近まとまった文章を書いてない。
だけど、書きたいこと・考えをまとめたいことはいくつかある。
twitterに書いても流れてしまうので、ブログに箇条書き。

・厚労相の発言に関する大学と就職
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819481E2E5E2E1858DE2EAE2E5E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2

・演劇教育やロールプレイングといった、役割を持った場の教育的意味

・コンテクスト(文脈)を知らない子どもたち

・コミュニティというもの(まちからの発想とひとからの発想)

・図解化(ヴィジュアライズ)による思考
※チャートライティング・ファシリテーショングラフィック・図解の技術・ビジュアルシンキングなど

・社会変化によって求められる中学・高校の教育

というメモ。

2011/06/14

置き換え

セミナーなどに参加する際に「知識を得る」ために来ている人は本を読めばいいのではないか?
とふと思った。
知識、もっと言えば情報を得るだけならいくつも方法はあるだろう。
人から直接情報を得るならば、そこに噛み砕くこと(解釈)が必要だし、
質問することや自分に置き換えること、もっとざっくりと言うと「考えること」が必要不可欠だろう。
しかし、単に情報を得るだけで満足する人は多い。

と考えたときに、果たして自分は違うと言い切れるのだろうか、と思った。
本を読んで、新しいことを知って、それで満足していないだろうか?
その情報を疑い、自分のなかで納得いくように噛み砕いているか。

何でも自分に置き換えてみる、自分のまわりのことにつなげてみる。
そういった想像力を使いながら、考えることを止めてはいけないと思った。
想像と思考の歯車を回して、行動というタイヤを回すこと。

2011/06/10

Right vs Right

正しさは何に基づいているかがとても重要だと思う。
倫理的な正しさ、手続き的な正しさ、立場的な正しさ。

どれも正しいが、時と場所と状況に照らし合わせると、正しくなかったりする。
RightとRightがぶつかると、それは戦いになる。
誰も悪くない。悪いのは、正しさがどの正しさなのか見えていないこと。
見ようとしていないともいえる。

正しさを疑ってかかる大切さ。
それは信用するなという意味ではなく、信じて良いのか確認しろという意味。
みんな、正しさの前では盲目的になってしまう。

聞こえの良い言葉、正論、大義名分。
正しそうなものは、正しいかどうか一度考えてみること。
戦う前に、正しさをひっくり返してよく見てみる。

2011/06/08

炎を忘れていないか?


今日で26歳になりました。
もっとしっかりした大人になりたいな、なんて思ってしまうのは秘密です。
25歳という時間は鹿児島でほとんど過ごしました。
就職したものの、何を仕事にするのか、誰と仕事をするのか、どんな仕事をつくるのか。
なんかいっぱいいっぱいだったような気がします。
そんな一年を経て、最近、急激に親近感を持ち始めたんです、このまちに。

素敵な人たちがたくさんいて、尊敬できて、支えていただいて。
そんな人たちが住む土地、そんな人たちを支えている土地に対して
何か愛着がわいてきたのかもしれません。

福岡にいて、サッカーの試合を見にいくことなんてなかった。
マラソンに出ることなんてなかった。
ブースをつくることなんてなかった。
色んな「なかった」ことが「あった」まち。
これからもあるのかな。
このまちに住む人たちは土地を愛してるんだなって強く感じる。
○○がない、□□がいやだ。
そう言いながらも、この地が大好き。
僕はその様子を見て、自分にそこまでの郷土愛がないって悟った。
それと同時に、その郷土愛に近づきたいって思ったのかもしれない。
ほんとのとこはよくわからないのだけど。

最近、よく自分がわからなくなる。
求められている役割や立場や状況を意識しすぎて、
ナチュラルな感情がどこにあるか一瞬見失う。
好きなことがわからなくて、嫌いなことがわからない。
そんな感覚の迷い。
演じすぎているのかな、と変なことを考えてしまう。
ただの考えすぎなのかなと思い、歌って忘れる。

ただ、徐々に自分の感覚に戻りつつある。
色々と折れた心や自信を取り戻しつつある。
いや、別に心の病ではないけど。
これは身体の話で、最近のコソっとトレーニングの効果が出てきた。
腕立てやら腹筋やらランニングやらが徐々に体を変えてきつつある。
うん、きつつある。
体力が大幅にアップするとともに、タフさが戻ってきた。
こういう感覚は「まだまだいけるぞ」と気合的な自信につながるのだ!

あとは仕事の進み具合。
1つを確実にやりつつ、次の展開を考えて動く。
まぁ、そんなにうまくいかなくても、徐々に徐々に。
前に撒いていた種が意外なところで芽を出したりする。
教えてもらった「事業は小さく産んで、大きく育てる」ってこういうことなんかな。

少しずつ少しずつ前に進め始めた色々なこと。
歯車が回り始めた。
その時、思い返すのは「僕のやるべきことは何だったっけ?」という疑問。
自分を原点回帰させ、出発点を見つめなおす。
俺の魂って何ですか?何に燃えていますか?
情熱はありますか?何に熱くなれますか?

根幹にあった炎は今もちゃんと燃え続けているか?

ああ。燃えてるさ、ばかやろー!
そんな26歳です。皆様、今後もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
Ryosuke Akahoshi

2011/06/06

言葉のトレーニング

僕はプレゼンをする時や講義をする時は、言葉の練習をしている。

言葉というより、発音。
発音というより、言葉を発する筋肉のウォーミングアップに近い。

それをちょっとご紹介。

何を言うかというと、

あえいいううええおあお
あいうえお
いうえおあ

と一文字ずつズラして、「お」まで読む。
それをあ行から、 ら行まで。

ゆっくり読み始めて、次第に加速させて、徐々に早口にする。
しっかり口をあける意識をする(ただし、小さな声でもOK)











 

2011/06/05

紫陽花





雨はイヤだけど、紫陽花を見ると雨も悪くないなと思った。
物事はイヤなものを見ようとすれば、イヤな面しか見えないし、
良いところを見ようとすれば、良い面が見えてくる。
良い・悪いなんて、自分が判断しているというよりも、そんな思いで見ているだけの話かも。

華の美しさに、“美しいと思える心”と“美しいと言える気持ち”が必要だと感じた。
何事にも。





2011/05/23

当たり前を見過ごしている


緑色の楓。
紅葉(もみじ)と呼ぶから、赤色をイメージしてしまいがちだけど、緑色。

当たり前のことを見過ごしているんだなと思いました。

見過ごしている当たり前。
当たり前じゃないはずの当たり前。

観ること、考えること、動くこと、ちゃんと直列につないでいきたい。

2011/05/11

萌芽

5月11日、今日。
いよいよ、スタートします。

仕事の案件が正式にスタートするのです。

生徒が自分の役割や可能性に気付くこと。
先生と生徒が新しい学び方を体験すること。
「世の中」と「学び」をつなげること。

要するにこういうことなのかな、と。

「自分が教える」ではなく、
「学ぶこと」「体験すること」という行動を
物語として設計する。

やはりコーディネーター、プロデューサーという
接し方・関わり方なんでしょう。

僕もまだまだ若い木だけれど、
これから育っていく芽が
スクスクと大きくなっていくように、
そんな時間を、そんな空間を
つくりあげていきたいと思います。
自分ひとりの力ではなく。




2011/05/07

365 to 366・・・



25歳の僕にとって、1年という時間は大きい。
自分を形づくる25分の1の時間だから。
というより、今までとまったく異なる状況に身をおいた1年は
若造には感慨深いものがあるのです。

1年前の55日。
鹿児島県内の知り合い、1名。
1人暮らし、初めて。
鹿児島に来たのは3回目。
家具、なし。
トランクケースとリュックサックのみ。

ほとんどゼロに近くて、ほとんど全て新しい。

「なんで鹿児島にきたの?」
と聞かれても、的を射る回答はできなかった。

自分を変えたくて、逃げてきたのだろうか。
それとも戦うためだったのだろうか。
思い出せるのは、挑戦したい!という思い。
あやふやだけど、どこかエネルギーを持っている言葉。
本当に僕は挑戦しているのだろうか。自分に甘えていないだろうか。
そんな気持ちはいつもどこかにある。
まぁ、たぶんサボり症だし、甘えてるんだろうけど。。。


本音を言えば、「1年したら地元に帰るのかなぁ」なんて思っていた。
明確にそう思っていたわけではないのだけど、
片付けてないダンボールは、僕の深層心理を表していたような気がする。
その考えに気付いて、無性に腹が立ってダンボールを片付けてやったのだ。

戦略とは捨てることだというけど、いろんなものを捨てると意外と前に進む力になる。
“捨てる”と“選ぶ”は同義語だから、選ぶことが前に進むことになってるのかも。
持たない推進力ってのがあるんだろうな。
一方で、持つことで生まれる責任も強いと思うけど。



話がだいぶそれた。よくあることだけど。

さっき風呂でボーッと考えていた。

あの高校に行ってなければ・・・
テニス部に入ってなければ・・・
浪人してなければ・・・
あの大学に入ってなければ・・・
あのバイトをクビになっていなければ・・・
あの集団に入っていなければ・・・
あのとき、代表にならなければ・・・
あの企業にそのまま入社しとけば・・・
留年しなければ・・・
あの面接で適当なこと言わなければ・・・
あのとき、旅に出なければ・・・

無駄な“たられば”を一通り考えてみたのだけど、
どれか一つの分岐点で違う選択肢をしていたら、
今の僕はきっと存在していない。
偶然のようで、必然的。

それは当たり前のようで、その背景には誰かがいて、
たくさんの助けや期待、逆に失望や悲しみもあったかもしれない。
自分という人間は1人でも、1人で成り立っているわけではない。
それは誰しもがそうなのだけど。

振り返ると、期待されていたのに力を発揮できないまま終わったことがいくつもあった。
そうじゃないときもあった。
その違いは何だっただろうか。
それは「僕自身が楽しんでいたかどうか」の差だったように思う。

全力で面白いと感じること・思えることを楽しむ。
それが自分のベストパフォーマンスにつながるし、期待に応えることになるのだろう。
そういう悟りを啓いて、いざ鹿児島2年目に突入!

※右上に写っているのはマンボウです。

2011/04/29

参加“意識”って何だろう?



参加意識はどうやったら生まれるのだろうか。
多くの“活動”と呼ばれるものが、組織内での「意識や行動」のズレに頭を悩ませる。
サークル活動、課外活動、会社活動・・・

このズレはその組織(グループ)で、当事者と傍観者に分かれているからだと僕は思う。
傍観者と当事者の大きな違いは参加意識の有無にあり、
その意識に基づく行動において大きな差が生まれてくる。

受動的な行動と能動的な行動はまったく生産性が違う。
言われたこと(ワーク・仕事)を100とすると、前者は8090になり、後者は110120になる。
前者はどんなに精度を高めても、天井が決まっているから100を超えることができない。

というけっこう自明なことを整理してみたのだが、
本題は「参加意識を持ってもらうにはどうすればいいか」である。


一言で言うと、「目的を持ってワークすること」だと思う。
ワークするとは、頭を働かせること、手足を動かすこと、体を動かすこと。
それでもまだ抽象的なのだけど、それよりも重要な「目的を持つ」ことについて。

イソップ寓話に「3人のレンガ職人」の話がある。
子供が3人のレンガ職人に「何しているの?」と尋ねました。
1人目の職人は、「レンガを積んでるんだよ」と答えた。
2人目の職人は、「壁をつくるのを手伝っているのさ」と答えた。
3人目の職人は、「大聖堂を建ているんだよ」と答えた。



同じワークをしていても、目的を持っていたり、全体像を把握していたり、
と意識(頭の中)に差がある。
ただ、これはいきなり「3人目を目指せ!」が正解かというと、そうではない気がする。

「レンガとは何か、どうやって積んでいくものか」を知らない人が
大聖堂を意識しても、しょうがない。

本当の一番最初は「レンガを積めるようになること」、
それができるようになる頃に大聖堂を意識できるといいのかもしれない。
という意味では、「目的を持ってワークすること」よりも
「ワークしながら目的を見つけること」方がより正しいと言える。


もう一つ、別の視点。
参加意識というと、僕の中ではワークショップが想起される。

ワークショップはまちづくりや教育において、
よく使われる有名な手法で、直訳では“工房”という意味を持つ。

似た言葉である“工場”が
「何を作るかが決まっており、作るプロセスを効率化する場」であるのに対して、
“工房”は「何を作るかから決めてつくりあげる場」である。

これを学びに例えてみると、
この時間で「何を学ぶかを自分で決める場」こそがワークショップではないだろうか。

誰かからもらったヨソモノの目的ではなく、自分が当事者として考える等身大の目的。



目的を自分でつくることこそ、傍観者から当事者へ変わるきっかけなのかもしれない。
といいつつも、実際問題として「目的をつくりましょう!」と言われても、
それこそ「目的をつくる目的は何ですか?」という問いが生まれてくる。

「目的や夢をつくろう、持とう、決めよう」という雰囲気・気持ちになることでしか、
純粋な目的は生まれないのかもしれない。

ならば、ワークショップとはつくるものを指示せず、
目的を引き出す・整理してもらうように踏み出す雰囲気づくりではないだろうか。

雰囲気と呼んでいる“もの”を「場」と言い換えても通じるように思う。


働きかけずに、働きかける。
直接ではなく、間接的に自走させること。

ワークショップだけが唯一解の解決策なのではなく、
そういった場があること、それを設計する人がいることが本当の意味で大切だと思う。

2011/04/25

1年前を思い返して、気付いたり

僕は1年前、大学を卒業して旅に出ていました。
別に、自分を探しに!というわけではなかったのだけど、
もっと色んなことを知りたくて、色んなものを見たくて、九州をまわっていたのです。

ちょうど一年前の今日(4月25日:日曜日)
熊本の人吉から鹿児島に来たのでした。

旅に出たのが、4月11日。
2週間目にして、鹿児島にたどりついたのです。
旅は合計21日だったので、
鹿児島以降はけっこう急いでいたような覚えがあります。


知覧にいく。
桜島を見る。
大隈に廃校を見に行く(これだけアポがありました)

あの時、カーナビを見ながら通過した道路。
駐車場を探そうとウロウロした道。

僕はそこに住んでいるのです。
当時に立ち返ってみると、すごく不思議です。

その時、僕は鹿児島に住んで、鹿児島に住んでいる人たちと接し、
鹿児島という土地で生きることをまったく想像だにしていなかった。

今の仕事だってそう。
そのときには、影も形もなかった。

そのときの自分には何があったのだろうか?
僕は一年前、何を思い、何を考え、何を感じていたのだろう。

そんなとき、twitterでつぶやいていた言葉が記憶を引き出すキッカケとなって、
当時の状況を思い出させてくれるから、これまた不思議です。

1年という時間を経て、
出会った人たち、
お世話になっている人たち、
声をかけてくれる人たちに
ちゃんと感謝したいなと想いが芽生えています。

出会いや感謝という言葉は気恥ずかしいのだけど、
そういう言葉しか思いつかないのだから仕方ないのです。

自分にできることをやる。
自分の役割を果たす。
自分の力を信じる。

Iという主語を用いて語ることも大事なのだけど、
その言葉に目の前の人を含めることが大事なのかなと思う。

可能性を信じる。
僕が忘れずにいたいこと。

未だ来ていない事実を見通す。
誰かの可能性のために、自分の可能性のために。
楽しむことを忘れずに。

ふと、そういうことを思い、考えた夜でした。

2011/04/04

走り抜けていく季節

春というのは、よく言われるように出会いと別れの季節です。
年度という区切りを境目に、どこかへ行く人、どこかから来る人、散る仲間、集まる仲間。
ご縁があるというけれど、つながりを僕らは縁と呼ぶ。
奇しくも季節は、桜の花が散り、緑が生い茂る季節へと徐々に移り変わる。

新しい緑との出会いを縁といったのだろうか。
そんなことをふと考えます。

僕の場合、新年が明けるタイミングよりも、
年度が変わるこの時期のほうが気持ちが昂ぶるような気がします。

去年の今は、何も決まっておらず、どういうチャレンジをしようかというパッションの前に、
果たして自分は何かできるのだろうかという不安がありました。

地元で地域おこしというものに関わるのか。
どこか違う国に旅立つのか。

僕はたまたま九州を見て回ろうと旅立ち、そこで偶然の出会いに遭遇しました。
それを偶然というのか、必然というのかはわかりません。

ただ、縁もゆかりもない鹿児島という地に来ようと思った正直な理由は覚えていません。

おそらく僕の直感は「このチャレンジは今、ぼくがすべきチャレンジである」と感じたのでしょう。

鹿児島に来て11ヶ月。そろそろ1年がたとうとしています。

僕はチャレンジできていたのだろうか?
等身大の挑戦だと思いつつ、小さくまとまっていたんではないだろうか?
何も為せていないんではないか?

不安というよりも、確かな何かを求めていたように感じます。

そんな漠然として想いを抱えていた中、先日ある起業家との出会いがありました。
リスクをとって戦うこと、ビジョンを純粋に追求すること、徹底ラインの徹底。

ぶつけられた生き様に打ちひしがれていました。

なぜ、僕はやっていないんだろうか?

そして、ある言葉を思い出しました。
「支援者ばかりで、プレイヤーが少なすぎる。」
「10年後がわかるやつと付き合っても面白くない。君は10年後どうなっているだろうか?」

そんなかっこいい背中を思い出しました。
その人もまた、リスクをとった起業家でした。

僕は起業家という職業ではなく、生き方に対して共感し、憧れを抱いているのかもしれません。

「自分のやりたいことをやる」
これは下手をするとただのエゴでしかありません。

仕事としてやりたいことをやる、というのは、誰かが求めていることという前提が絶対です。
前提が明らかなではない状況でも、間違えるリスクをとって攻める。やってみる。

もちろん取り組みたいテーマや問題意識もあるけど、自分の立ち位置みたいな話だと思う。
ファーストトラッカーなのか、フォロワーなのか。

そんなぐちゃぐちゃを考える前に、自分は自分が考えたことを誰よりも早くやりたいと思った。
屁理屈よりも、そっちの方がある意味ただしい。

文章としてまとめる気も、メッセージを明確にする気もない。
ただひたすら、この今一瞬を、この季節を、この時代を、しっかりちゃんと走り抜けたい。

2011/03/13

善意を善行につなげるために Negative side of leadship

「善意が善行につながるわけではない」

良かれと思ったことが、人を傷つけてしまうこともある。

善意というのは、相手の立場にたって考えなければ、時に結果として悪行となってしまう。
善行であると信じているし、想いが強いために
簡単に引くことができない、そうならないのである。
さらに言えば、多くの人を巻き込む善意には細心の注意が必要だ。

善意が起こるとき、それは平時ではなく、有事である。
普段の冷静さを忘れていることに気付かない。
何かしなければ、と焦燥感に駆られる。
無力な自分を感じて、怖くなる。

有事の際に、平静ではいられない。

平静ではない状況下での、善意。
それは強いリーダーシップになる。

だからこそ、舵を取る際に気をつける必要がある。
その行動は悪行にならないか。
自分たちが果たそうとする目的、担うべき役割、
それらと行動はちゃんとつながっているか。

リーダーシップは諸刃の剣。
行動の一歩手前で少し振り返ること。
正しい行い、善い行い。

何が悪くて、何が良いか。
その決断に正解などない。
それでも、誰かのためと思い、何かをする。

その何かが本当に誰かのためになるように、善意を持って行動を始める人
周りを巻き込むリーダーシップを発揮する人は今一度、自身に仲間に問うべきなのかもしれない。
自分たちが取り組もうとしている“事”の意味を。

それからでも行動は遅くないはず。

そして、普段の生活をすることも、待つことも、祈ることも、それはそれで意味がある。

ランサー