2011/02/24

確からしさ

教育という領域に関わっていて、自身の強みは何なのだろうと思うことがよくある。

教育学部出身でもなければ、教員免許もない。
博士の学位があるわけでもなければ、資格があるわけでもない。
塾講師をやったことがあるわけでもないし、家庭教師もやったことがない。

大学生向けの勉強会を開催したり就職活動を支援したり、
小学生の自然体験キャンプを手伝ったり、
中学校の総合学習のボランティアをしたり、
異年齢の集まりに参加したり。

いくつかの実体験とそこでの試行錯誤が僕の資産になっている。
逆に言えば、それだけなんだ。

もっと言えば、そこから導き出した己の武器は何か?
その問いとも迷いとも言えぬ思いは常にある。

しかし、今日少し見えた気がした。
僕は人の表情や行動、コミュニケーションを観察し、
その人がどういった人かを観て把握する力が他の人より秀でている(気がする)
※ただし、自分が教えるシーンにおいて

その人の特徴、つまり、それは長所であり、短所。
それを見つけた上で、その延長線上にどんな可能性があるか。
その特徴以外に隠れている潜在的な能力の片鱗が見えないか。
そこがなんとなくわかる。



僕は学生時代、「個の能力としては負けるが、組織を率いたときには負けない」
という変な自信を持っていた。

それはチームのメンバーの力を引き出すことに妙な自信があったから。
そして、それを統合してチームを一体にできる、と思い込んでいた。

実際、それができるのかはよくわからない。
まだ、働き始めてチームを率いたことなどないから。
ただ、よくぶつかる壁は、「個としての力を上げること」と「個を束ねる力を養うこと」のバランス。

昨日の自分よりも、今日の自分を高めることは重要であるが、
その鍛錬は何の為にいつまでどのレベルまでどれだけの時間をかけてやるのか?

もちろん、「やりたいこと」や「やるべきこと」と
上記の鍛錬のベクトルが一緒であればそれは幸せである。
しかし、そうとは限らない。
「やりたいこと」が大きければ、一人では為し得ない。
どんな天才も最強の組織には太刀打ちできない。

束ねるという言い方が正しいのかはわからない。
ただ、明確に言えるのは、エースとリーダーは同一ではないということ。

最強のエースよりも、複数のエースを束ねるリーダーの方がより大きな夢を成し遂げる。
別に夢は大きいとか、小さいとか、そういう測り方をするものではない。

だが、少しでも野望や野心、変えたい何かがあるならば、
未だ足りぬ自分の力を無視してでも走り出し、
優秀なフォロワーと現実を変えていく日が来る。

そういう思いが芽生えつつも、
足りない自分を高め、付加価値を出さなければいかない今。

確かなことなどなく、確からしいことを集めて、
誰も見えないような未来を見ようと、つくろうとしている。

大袈裟な言い方だけど、そうやって自分を鼓舞しているんだろう。

可能性を見い出し、それを引き出して、見えるようにしていく。
それが今の僕のリーダーシップであり、武器なのだろう。
僕は僕の確からしさを集めて、戦うしかない。

2011/02/20

接点 Contact Point

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たまたまYouTubeで見つけた「HOME」のムービー。
なんと無料。しかもHDまである。
既に14,361,762人が見ている。
美しい映像に思わず息をのんでしまう。


調べてみると、この「HOME」の [Blu-ray] 版は2,635円。
僕はBlu-ray派じゃないので買わないけど、Blu-ray派だったら買うかもしれない。
何回も見たいような映像だから。大画面なら、なおさら良いだろう。
うーん、そう考えるとApple TVの意味がよくわかる。

YouTubeに高画質動画が増えれば増えるほど、それをどう見るかという話になってくるわけで、
「じゃあどうしようかな。その映画(映像)をレンタルしようか、買おうか。
あ、これで見れる!」
となるのだろうな、と。

まぁ、Wiiでも見れるんですが、「実際に映像を見る」までにかかる手間が違う。

映像の種類と質、見る画面、見る手順。
パソコンとテレビがどうつながるかによって、
映像との接点が変わり、ライフスタイルが変わっていくんだろうと思う。

2011/02/14

花見MTG [ ハナミーティング ]@2/18

4月10日、日曜日。
この日に開校を向かえる大学がある。

サクラ島大学
校舎があるわけでもないし、入学試験があるわけでもない。
たぶん、卒業もないんだろう。

学びを口実に、人が集まる。
「口実」って、響きがどこか言い訳っぽい。
でも、よく字を見ると、口に実って書いてある。
口に実。

調べてみると、口実は「普段よく口にする言葉」という意味もあるらしい。
よく口にした言の葉には、いつしか実が生るということか。

英語を調べてみると、
pretend:ふりをする、装う、口実とする
[語源] L.praetendere(人前で言い訳・うそをつく)
[語源] pre-(前に)+L.tendere(伸ばす)
と書いてあった。

この語源のtendereから多くの言葉が生まれているらしい。
第59話:緊張(tension)とふりをする(pretend) 「引っ張る、伸ばす」のイメージを持つ語根“tendere”

口にした嘘がいつの間にか実を結び、本当になってしまう。
そうなってしまうのか。いや、そうしてしまうのか。

そう思ってしまうサクラ島大学。
そこで、一緒に“そうしてしまう”サポーターを募集しています。満開の桜に向けて。

 詳しくはサクラ島大学のブログへ。
ちょっと興味がある、そこの貴方、これを口実にぜひご参加を。

“繋ぐ”と“積み重ねる”

日々の行動は積み重なって習慣になり、やがて振る舞いとなって表れる。
タスクはその人を形づくる。
人は仕事によって磨かれるというが、人は仕事によって腐ることもあるのだ。
それは仕事の内容とも仕事への取り組み方とも当てはまるだろう。
仕事をしていて、自分がやっていることがただの作業になっていないか?
付加価値を生んでいるのか?という問いが頭の片隅に居座り、
僕の思考はグルグルしながら、何かを創ろうとしている。

理念やミッションといった上位概念とプロジェクトや企画といった具体的な行動が
つながっていないと僕はよく指摘される。
これは非常に悔しい。一貫していないことが嫌いな癖に、
自身の行動や思想が矛盾しているからだ。自分に苛立ってしまう。
だから、ふと冷静になり一歩引いて俯瞰したり、
物事のつながりやストーリーを考えたりする。頭の中がごちゃごちゃになりつつも。


ただ、そんな混沌のなかでいくつかわかってきたことがある。
1.壮大なビジョンは明確なミッションの連続によって為される
2.哲学のない人間はどんなに戦略家でも実践家でも輝いて見えない
3.戦略以下のない思想は絵に描いた餅でしかない

当たり前だといってしまえば、当たり前かもしれない。
しかし、それが頭でなく体で感覚としてわかることに価値があるのかもしれない。
小さな気付きや成功、反省を積み重ねることでしか地力は身につかないのだから。

2011/02/12

コミュニケーションの陰に潜むコンテンツという大事なこと


コミュニケーションとは、メッセージや想いを伝えることである。
そのコンテンツ(伝えるもの)とコミュニケーションは車の両輪のようなもの。
研究熱心で喋りベタな教授や、とにかく話すだけの近所のおばさんは
2つのバランスが悪い顕著な例ではないだろうか。


就職試験のグループディスカッションで発言できない学生がいる。
上記の考えでいくと、その人には3つのパターンがありそうだ。
1.伝えることはできるが、そもそも考える力が弱い
2.考えてはいるが、伝わるように発言できない
3.どちらも出来ない

つまり、その人には「考える力」と「伝える力」を適切なレベルで教え、伸ばす必要がある。
教えるというよりも、型を覚えて練習を繰り返すイメージに近い。

何かの能力を高める時に、手法を学習だけにフォーカスしてしまうのは危険である。
練習なき学習は“わかったふり”を生み出し、学習なき練習は“練習のための練習”を生み出す。

教えるという言葉はついつい学習という言葉を連想させる。
しかし、必要なソリューション(解決策)は練習であるケースが多い。
頭だけで考えがちだと、学習が全てのソリューションだと思い込み、学習の手法などの詳細にこだわる。
そもそも必要なことが練習だった場合、その手法はほとんど意味がない。
これは学習と練習を入れ替えても同じことがいえる。
とにかく練習をすべき!と体育会系のノリで動き始めても、誤った満足感と徒労に終わる。

“人脈をつくる”や“有名になる”という行動もコンテンツ×コミュニケーションで読み解くと面白い。

「学生のうちに社会人との人脈をつくっておく」
実際に僕が大学二年生の時に思っていたことだ。
しかし、実際に社会人の先輩たちの議論を間近で見て、自身の考えが間違っていたことに気付いた。
彼らが僕と人脈をつくる意味がないのである。
つまり、コミュニケーションすべき理由がない。
僕は自身を高めなければ、この人たちとはつながれないし、この人たちの背中に追い付けない。
そう思った。
すべきことはコミュニケーションではなく、コンテンツだと気付いたのである。

人脈の話は“有名になりたい”という話に近い。
“有名になりたい”というのは、より多くの人に“自分を知る”というコミュニケーションをとってほしいということ。
そこで、「伝えるべきあなたは一体どんなあなたですか?」というコンテンツの有無が問われる。
その問いに耐えられる答えを持ち合わせているなら、有名になることに力を注ぐべきだろう。

コミュニケーションに焦点を当てているが、コンテンツに課題がある。
そういった例は枚挙に暇がない。

ただ、コンテンツとコミュニケーションは厳密に区分けできるものでもないし、
常にそれを明確に分けるべきでもない。

例えば、コミュニケーション自体がコンテンツになる場合がそうである。
広告代理店やPR会社のコミュニケーションビジネス、
会員同士のコミュニケーションが価値になるソーシャル・ネットワークなどがそうだと言える。

と、コンテンツ×コミュニケーションについて書いてきたが、
実はこれにコンテクストが加わると僕は思う。
コンテクストとは、文脈、背景、意図、暗黙知といったものだ。


続々と登場する新たなWEBサービスはコミュニケーションを主軸にしたものが多い。
そんな環境変化のなかで、コミュニケーションではなく、コンテンツを創り出す力や経験、
コンテクストを読み取る力の重要性が高まっていくのではないだろうか。
そんな気がしている今日この頃。

2011/02/05

「居場所」と「出番」

問題というのは、問題解決サイクルから外れたところで発生し、
次第に固定化していき、規模の拡大化や深刻化が進む。
社会に置き換えれば、その問題を解決しても当事者以外が得にならないケースや、
お金にならない社会インフラ分野でパブリックサービスが行き届いてないケースが存在する。
誤解を恐れずに言えば、社会問題というのは社会的に排除され困っている環境・人々がいるということである。

インクルーシブ・ビジネス、排除された人々を再び社会に包括する事業。
僕はこれがソーシャル・ビジネスと呼ばれているものだと考えている。
(定義に関する論争には意味がないと思うが、自身の定義として考えおくべきなので)

先週のかごしまソーシャルビジネスフォーラムにおいて、
株式会社エンパブリックの広石さんの講演を聴く機会があった。

そこで「居場所」と「出番」という言葉を知った。
僕は頭に電撃をくらったような衝撃を受けた。
言葉にならないというか、言葉にできないというか、今もその言葉が理解できていたのか不安になるほどの心が揺れ動く感動とも衝動とも言えぬ驚きだった。

内閣府の「新しい公共」には以下の一文がある。

国民すべてが意欲と能力に応じ労働市場やさまざまな 社会活動に参加できる社会(「出番」と「居場所」)を実現し、成長力を高めていくことに基本を置く

この「出番」と「居場所」は新しい公共担当であった仙石元官房長官がいろどりの横石さんから聞いた言葉がもとになっているという。

いろどりは、過疎地域のおばあちゃんたちが葉っぱをつまものとして売っている会社である。
いろどりのある上勝町は医療費がほかと比べて圧倒的に安い。
時間を持て余したお年寄りに働く“居場所”と活躍する“出番“をつくったことが大きいのではないかと推測できる。

居場所とはなんだろうか?
家、職場、学校、自分がいる場に「居場所」はあるのだろうか?

出番とはなんだろうか?
「自分の出番だ!」と思える機会が日常にあるのだろうか?
誰でもできること、何の為かわからないこと、ただ過ぎる日々、
「自分の出番」と無縁な世界に「居場所」はあるのだろうか?

その人にしか出来ないことなどない。
しかし、その人らしさを活かせることは必ずある。
そして、その活かせることが付加価値になり、仕事になることがある。

弱き人々を排除してしまう社会システムにおいて、「弱者」という定義を外し、
その人たちが持っている可能性や力に目を向けて、「出番」という機会をつくり、
そこに「居場所」をつくる。

綺麗事かもしれない。
しかし、世の中を良くするとはそういうことなんだろう。
そのために泥を掻き分け、啜る勇気があるかどうかだ。
それを為すことが自分自身の居場所をつくり、出番をつくる。

ああ、もっとしっかりやろうよ、自分。

自彊不息。

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