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2011/06/08

炎を忘れていないか?


今日で26歳になりました。
もっとしっかりした大人になりたいな、なんて思ってしまうのは秘密です。
25歳という時間は鹿児島でほとんど過ごしました。
就職したものの、何を仕事にするのか、誰と仕事をするのか、どんな仕事をつくるのか。
なんかいっぱいいっぱいだったような気がします。
そんな一年を経て、最近、急激に親近感を持ち始めたんです、このまちに。

素敵な人たちがたくさんいて、尊敬できて、支えていただいて。
そんな人たちが住む土地、そんな人たちを支えている土地に対して
何か愛着がわいてきたのかもしれません。

福岡にいて、サッカーの試合を見にいくことなんてなかった。
マラソンに出ることなんてなかった。
ブースをつくることなんてなかった。
色んな「なかった」ことが「あった」まち。
これからもあるのかな。
このまちに住む人たちは土地を愛してるんだなって強く感じる。
○○がない、□□がいやだ。
そう言いながらも、この地が大好き。
僕はその様子を見て、自分にそこまでの郷土愛がないって悟った。
それと同時に、その郷土愛に近づきたいって思ったのかもしれない。
ほんとのとこはよくわからないのだけど。

最近、よく自分がわからなくなる。
求められている役割や立場や状況を意識しすぎて、
ナチュラルな感情がどこにあるか一瞬見失う。
好きなことがわからなくて、嫌いなことがわからない。
そんな感覚の迷い。
演じすぎているのかな、と変なことを考えてしまう。
ただの考えすぎなのかなと思い、歌って忘れる。

ただ、徐々に自分の感覚に戻りつつある。
色々と折れた心や自信を取り戻しつつある。
いや、別に心の病ではないけど。
これは身体の話で、最近のコソっとトレーニングの効果が出てきた。
腕立てやら腹筋やらランニングやらが徐々に体を変えてきつつある。
うん、きつつある。
体力が大幅にアップするとともに、タフさが戻ってきた。
こういう感覚は「まだまだいけるぞ」と気合的な自信につながるのだ!

あとは仕事の進み具合。
1つを確実にやりつつ、次の展開を考えて動く。
まぁ、そんなにうまくいかなくても、徐々に徐々に。
前に撒いていた種が意外なところで芽を出したりする。
教えてもらった「事業は小さく産んで、大きく育てる」ってこういうことなんかな。

少しずつ少しずつ前に進め始めた色々なこと。
歯車が回り始めた。
その時、思い返すのは「僕のやるべきことは何だったっけ?」という疑問。
自分を原点回帰させ、出発点を見つめなおす。
俺の魂って何ですか?何に燃えていますか?
情熱はありますか?何に熱くなれますか?

根幹にあった炎は今もちゃんと燃え続けているか?

ああ。燃えてるさ、ばかやろー!
そんな26歳です。皆様、今後もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
Ryosuke Akahoshi

2010/10/13

勇気付けられる言葉

ウィンストン・チャーチルの言葉が力強い。
読むだけでも、弱気が吹き飛ぶ。


『どんなに苦しくて不利な状況に追い込まれたとしても、絶対に屈服してはならない。絶望的な状況を前にしても、相手がどんなに強大であっても、絶対に屈服してはならない。絶対、絶対、絶対、絶対に屈服してはならない、絶対にだ』

Never give in--never, never, never, never, in nothing great or small, large or petty, never give in except to convictions of honour and good sense. Never yield to force; never yield to the apparently overwhelming might of the enemy.

2010/09/01

傍を楽にするということ、働く

ある文章が刺さった。

目の前の机も、その上のコップも、耳にとどく音楽も。ペンも紙も、すべて誰かがつくったものだ。街路樹のような自然物でさえ、人の仕事の結果としてそこに生えている。
教育機関卒業後の私たちは、生きている時間の大半をなんらかの形で仕事に費やし、その累積が社会を形成している。私たちは、数え切れない他人の「仕事」に囲まれて日々生きているわけだが、ではそれらの仕事は私たちになにを与え、伝えているのだろう。

たとえば安売り家具屋の店頭に並ぶ、カラーボックスのような本棚。化粧板の仕上げは側面まで、裏面はベニア貼りの彼らは、「裏は見えないからいいでしょ?」というメッセージを、語るともなく語っている。建売住宅の扉は、開け閉めのたびに薄い音を立てながら、それをつくった人たちの「こんなもんでいいでしょ?」という腹のうちを伝える。

やたらに広告頁の多い雑誌。10分程度の内容を一時間枠に水増ししたテレビ番組、などなど。様々な仕事が「こんなもんでいいでしょ?」という、人を軽くあつかったメッセージを体現している。それらは隠しようのないものだし、デザインはそれを隠すために拓かれた技術でもない。

また一方に、丁寧に時間と心がかけられた仕事がある。素材の旨味を引き出すべく、手間を惜しむことなくつくられる料理。表面的には見えない細部にまで手の入った工芸品。一流のスポーツ選手による素晴らしいプレイに、「こんなもんで」などという力の出し惜しみはない。このような仕事に触れる時、私たちは「いい仕事をするなあ」と、嬉しそうな表情をする。なぜ嬉しいのだろう。

人間は「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを、つねに探し求めている生き物だと思う。そしてそれが足りなくなると、どんどん元気がなくなり、時には精神のバランスを崩してしまう。
「こんなものでいい」と思いながらつくられたものは、それを手にする人の存在を否定する。とくに幼児期に、こうした棘(とげ)に囲まれて育つことは、人の成長にどんなダメージを与えるだろう。

大人でも同じだ。人々が自分の仕事をとおして、自分たち自身を傷つけ、目に見えないボディーブローを効かせ合うような悪循環が、長く重ねられている気がしてならない。

しかし、結果としての仕事に働き方の内実が含まれるのなら、「働き方」が変わることによって、世界が変わる可能性もあるのではないか。
この世界は一人一人の小さな「仕事」の累積なのだから、世界が変わる方法はどこか余所ではなく、じつは一人一人の手元にある。多くの人が「自分」を疎外して働いた結果、それを手にした人をも疎外する非人間的な社会が出来上がるわけだが、同じ構造で逆の成果を生み出すこともできる。
問題は、なぜ多くの人がそれをできないのか、ということになるが、まずはいくつかの働き方を尋ねるところからはじめてみたい。

自分の仕事をつくる 西村佳哲著 プロローグより

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