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2013/11/19

投資的に仕事に取り組むこと

仕事(労働)の投資性があると思うのだが、みんながそう考える訳ではない。
消費的な労働をすると、発展性がないのに・・・。
と、ふと思うことがあったので、以下にまとめる。

仕事をする時に、投資的側面と消費的側面があると思う。「仕事の報酬は仕事」という表現があるけど、良い仕事をすれば次の仕事に結びつくということは事実である。社内外問わず。そういう意味で上記のようなケースは投資的な仕事と言える。

一方で消費的な仕事も多い。雑務・雑用に分類されてしまうような細々したことから、資料作成や日程調整などあげればキリがない。驚くことに様々な人と接点がある中で、労働観・仕事観として投資的感覚がない、そういう意識がない人が意外と多いと気付いた。「お前の接点の問題じゃない?」という気もするが、ちょっと頭の整理も含めて書いてみる。

投資的な仕事というのは、何にでも通じると思う。
元記事は忘れたが、「4時間かかる仕事をハッカーは3時間50分かけてシステムをつくって、10分で処理する」といった話がある。これはまさにシステム(仕組み)的な話で、非常に投資的な仕事のやり方だと思う。似たようなことがあれば、二回目以降は10分で完了できるわけだし。これはプログラミングできなくとも同じことができる。2時間かけてマニュアルを作成して、バイト2人に頼んで2時間やってもらえば良いのである。当たり前だけど、繰り返しの業務や代替可能性のある仕事は仕組みにした方が良い。初期コストがかかったとしても。

まとめると、1.熟達化(向上) 2.代替化(しくみ)だと思うんですよね。よりスピードが早くなるかを考え実行し改善する。または他の人でも出来るように言語化・ワークフロー設計・マニュアル作成を行う。こういった観点だと、以下の2冊が勉強になった気がする。読んだのは学生時代だけども・・・


熟達化、つまりベテランになるってことも大事だけど、仕事のレイヤーを上げていく方が良い人(それに向いている、志向している)は自分のリソース配分だけでなく、まわりをどううまくマネジメントしていくかってことなんだと思う。経営って、リソースの最適投資だと思うんですよね。そのレイヤーの拡大だと思う。昇進とか社長になるとかって。代替化は大事なんです。自分がいなくてもまわる仕組み。そうすると、自分は違う領域に取り組める。言うは易し行うは難しなんだが。

一方でキーマンとのネットワーキング(みたいなこと)も重要である。一見無駄に思えるような話の聞き役もそこで次に色々とつながることがある。こういう感覚も暗黙知なので、どのレベルでどんな人と何を話すか何をPRするかなど見えづらいし、やっている人も言語化できないし、やらないよね。こういう姿勢って、誰かから盗むか叩き込まれるかしないとダメなので、そういう環境/職場に入るってことだろうと思う。わからないのであれば、厳しそうな方に飛び込むというか。バカな体育会系よりもロジカルに詰められる方で。

2013/01/26

世の中の流れ:スタートアップとデジタル

明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。
って、もう2月ですね。
今年は定期的に文章を書いていきたいところです。
アウトプットを地味に積み重ねる。
うん。最も苦手とするコツコツ系なので、三日坊主が予測されます。

という訳で本日のテーマは
・世の中はどう変わっているのか。
・また、そこでどんな力が求められるようになっているか。
と漠然としたことを考えてみます。

僕は高校生や大学生の前にたって、
社会人基礎力のようなものを教える、
否、身につけてもらう授業をしていました。

それには、正解などありません。
言ってしまえば、“僕”が思う社会人基礎力です。
それは、難しいと同時に、大きな責任があります。
僕が伝えられることは、考え続ける事や行動し続ける事、学び続ける事など
終わりがない世の中だと感じてもらうことだけでした。
僕にその言葉を体現しないと、ウソつきになってしまいます。
そんな意味でも、僕は考え続けたいと思っているテーマなのです。


そもそも求められる能力なんて、一般解を求めれば、
聞こえの良い抽象的な言葉が多くなってしまいます。
もちろん、優れた言葉を持つ人もいます。
しかし、その本質的な言葉は多くの背景や思考跡がなければ、
受け手にとって、希薄なものになってしまうこともしばしばです。

なので、まずは背景的な部分や見えにくい流れをちょっと考えていこうと思います。


世の中、それは何でどう変わっているか
世の中、社会、国家、実は非常にぼやけたもので、実態があるようでないようで
とらえどころのない言葉、概念です。

働くという文脈で言えば、
自分が生活する身の回り全ては誰かの仕事によって成り立っています。

今、この文を読むために使っているパソコン、スマートフォン、携帯電話、タブレット。
それはどこかで誰かが考え、どこかで誰かが作り、どこかからそこへ誰かが運び、今そこにあります。
部屋の電球、棚、マフラー、コート、食器、靴、扉、ドアノブ。
構築された世界の裏側には仕事が存在します。

仕事とは、誰かにとって意味や価値があることです。
それをビジネスと言えば、その意味や価値が換金されるものと言えます。
例えば、道路を舗装することはそこを通る人にとって、意味があることですが
それを直接負担しろと言われても困ります。
なので、税金をとって、それを再分配しているわけですね。
いやぁ、国って仕組みは凄い。


過度なビジネス信者は、物事を換金可能性でしか見れません。
確かに飯を食うためにお金は必要だし、誰かがお金を払う≒価値あることだと言えます。
しかし、世には、お金では測れない価値や、換金できない意味があります。
それは理想論や綺麗事ではなく、事実です。
それに、ただ儲かるだけで、仕事に矜持を持てますか。

逆に行き過ぎた平和主義者、反ビジネス論者、反資本主義者は
ビジネスの可能性を根拠乏しいままに真っ向から否定します。
こういった方々は聞こえが良い言葉が大好きで、平穏志向なはずですが
なぜか原理主義に陥り、自分たち以外を排除しようとします。
そして、貨幣を否定したりする癖に、お金をもらう仕事をやり
普通にご飯を食べていたりします。別に自給自足したりしません。
あとアフィリエイトとかしたりしますね。
矛盾を抱えているフラストレーションが外に向いているのかもしれません。


ちょっと批判っぽくなってしまいましたが、
バランス感覚を持とうという結論でここは閉めます。

若者におっさんは、「世の中そんなに甘くないぞ」と言ったりしますが
世の中は思っている以上に厳しい部分と、思っている以上に甘い部分が混在しています。
甘い汁を啜りたい放題な方々がいらっしゃるのも事実。
そこを目指したくないし、目指してもらいたくはないですね(誰にや・・・

さて、ここら辺からもうちょっと具体的に書いてみます。

1.スタートアップ(起業)は流行っているの?

twitterやFacebookが普及した頃からでしょうか。
ソーシャルゲームが流行り始めた頃からでしょうか。
スマートフォンやアプリが当たり前のものになりつつあるからでしょうか。

なぜかベンチャーがスタートアップとリニューアルして流行っているとのことです。
しかし、実際はアプリやソーシャルサービスにチャレンジしたけど、
マネタイズが・・・・

というか、まぁマネタイズって何。
今まではサービスやプロダクトを提供し、その対価としてお金をもらうWebビジネスや
PVを集め広告モデルで稼ぐWebメディアなどがメインでした。
しかし、フリーミアムの考え方が普及してきた頃から、Webサービスのコストダウンもあり「無料で使えるユーザーをたくさんつかまえて、一部にお金を払ってもらう」というモデルがちょこちょこと増えてきました。
とは言っても、このモデルは無料ユーザーはかなりの規模で囲い込んだり、有料への導線をしっかり設計しなければ、実は難しいモデルです。

そこをよく考えずに、「このアプリいけんじゃね」的なアイデアと突破力的なものに
シードアクセラレーターという少額出資ファンドがお金を出すわけです。

このアクセラレーターの方がブームなんじゃないか?というほど増えています。
Web関連でそれなりに儲けた会社が投資部門を独立させたり、
大企業が自社で新規事業を育てるよりも子会社としてアクセラレーターをつくり
文字通りシード(種)を発掘したり。

そういう意味では、起業のハードルは下がっていると言われています。
しかし、エンジニアというものづくり人材を起点とするので、
デザイナーやビジネス開発ができる人間という組み合わせが重要だと言われたり、言われなかったり。肝はサービスのアイディアよりも、チームビルディングなのかもしれません。

まぁ、ググったらわかることなんですが、閉じるサービスやアプリの多いこと多いこと。
こういったWeb業界の「とりあえずリリースして、フィードバックがあれば直す」的な誤ったリーンスタートアップ的な考えは、よく炎上につながります。
簡単に言うと、軽いノリなのです。しかし、それはしょうがない。
取り組んでいる部分が、「なければならない」ものではなく「あったらいいかも」の種類だからです。
なので、非WebとWebの叩き合い、炎上というのは一昔前に流行ったバカの壁ってことです。


最近は、正しくリーンを読み、それなりのクオリティを持ったプロダクトを出す、であったり、マネタイズを意識して事業をスタートするという傾向にあるようです。
当たり前と言えば、当たり前なのかもしれませんが。

逆に、マネタイズをせず、ユーザーをそれなりに多く集めて、大きな会社に買ってもらうというエグジットもあるようです。
インスタグラムがFacebookに買収されたり、日本でもソーシャルゲームやマッチングサービスが大きめの会社に買われたりしていますね。
それも価値の換金なので、ビジネス的にはアリなんだと思います。

そんなこんなで、スマートフォンやタブレットの普及はまだまだこれからなので、
この分野のスタートアップはまだまだ続くと思われます。
特にiOS VS Androidに非常に注目が集まるところ。
タブレットの様子を見ていると、この分野でAndroidが巻き返し、プラットフォーマーとして
より確固たる地位を築くのかもしれません。うーん、ネクサス7欲しい。

現状もそうですが、アプリの開発やスマーフォンでのサイトデザインにおいて
人材は不足しています。
数値的な根拠は引っ張ってきていないのですが、ざっくり求人を調べても分かるかと思います。
英語よりも、プログラミングを学ぶべき時代です。
とは言いつつも、プログラミングは英語なので、結果的にやっぱり英語も必要ですね。


という訳で、Webやデジタルに話をシフトします。

2.Web、インターネットは何を変える?

まず、EC。もはやネットのスーパーも出てきているし、
コンビニよりもコンビニエンスになりつつあるEコマース。
スマートフォンで出店作業ができるサービスもいくつか登場し、
その課金も格安である。
どのプラットフォームを使うかもあるが、誰でもネットショップを持つ事ができる時代なので、リアル店舗でやる人はリアル店舗の価値を存分に引き出すことが求められる。
特にただ安いだけだと、それはネットに置き換わる可能性が高い。
単純に店舗より倉庫の方がコストが低いし、人件費も低くなるし、
商圏がまったく異なるから。もちろん、競合も多いけどね。

また、携帯やスマホでも高画質な画像が撮影でき、ちょっとした加工ができたり
気軽に転送できたりすると、デジカメは存在理由をなくしてしまう。
プリントカメラからデジカメに起きたシフトは、異業種の競争でまた変化しつつある。
そんな中、一眼レフが少しブームであったり、デジカメにWi-Fi機能をつけたものが出たりしている。

違う視点を言えば、ソーシャルメディアでの炎上騒動がとても増えた。
これは飲酒コメントや軽犯罪自白的な“友達と飲みながら話す”レベルを公に発信してしまうことが原因のほとんど。
ITリテラシーや情報リテラシーと言ってもいいのだが、Webの適切な感覚、自分の知らない部分への想像性が欠如している。
もはや、情報の取り扱いやWebのお作法は義務教育に組み込むべきところまで来ているのではないか。
しかし、そもそも先生がこういったリテラシーについて理解していないため、現場には期待してはいけないのが事実である。
学校では、いまだに一太郎が使われていたりする。懐かし過ぎて、思い出すのに10秒かかる。

リテラシーの差は広がっているが、それ自体が経験知であり、暗黙知であるため、
伝達しにくい領域なのかもしれません。

ECからの流れで、炎上の話になりましたが、電気自動車の開発はWebと関係が強くなりそうです。
smart tvやsmart carのコンセプトは、Web技術を活用した利便性の刷新がポイントだと感じています。
例えば、smart carであれば、利用者の顔を認識し、エンジンを入れるとクラウド連携し、目的地へ誘導してくれたり。
Webで培われた技術が自動車をより自動にしていく可能性が高いのです。
テスラに乗っている人のブログなどを読むと、その凄さがひしひしと伝わってきます。
また、カーシェアリングでも、iPhoneアプリで鍵機能を果たし、予約が簡単にできるようなサービスもあります。
あげていけば、サービスは細かい説明になったり、これから論は半分妄想になるのですが、決定的な違いとして
今までは「Web的なものが使えると便利」だったのが
これからは「Web的なものが使えないと圧倒的に不便」な時代になっていくということです。
しかし、タンジブルビット(触れる情報)も進んでおり、
キネクトやleap motionにそういった技術コンセプトが生きていると思います。
AppleのUIでもわかるように、説明がなくてもわかるデザインやテクノロジーが求められています。
この領域では、人類文化学、人間工学、感性学、社会学、生物学、など様々な視点から、
使いやすいことを科学し、検証し、実現するデザイナーが必要となっていくと思います。

で、この流れでソーシャルビジネス、インクルーシブなビジネスについて考えたかったけど
続きは次回ということで。

書きながら、カールスバーグ飲んでたら、うますぎて 買ってしまった。。。

 

2011/12/22

Think たこやき大学

たこやき大学 ソーシャルネットワーク科というイベントに参加してきた。
2時間のセミナーに参加費5,000円。
「え?それなんか怪しくない?」と思うのが、普通の反応だと思う。

僕も最後の最後まで「5,000円、高いなぁ」と思い、迷っていたのだけど、
「年に1回だし、ま、いっか」と思い、ドタンバ参加してきたというわけです。

結論から言うと、5,000円の価値はあった。

1.考えていたコミュニティのことが整理できた
→レイヤーで見る多層社会らへん

2.規模感の手がかりがあった。
→規模感と想像力の図示がよかった

3.思考の材料をもらい、脳のリフレッシュになった
→最近、視野が狭くなりがちで、新たな視点をもらえた


以下、思ったことを箇条書きで書いてみる。

・評価経済社会へのシフト
お金をもっていることの価値が相対的に小さくなってきた。
根底にある考え方は「多くあるものを使い、足りないものを節約する」が美徳という感覚。
今、溢れているのは「情報」、情報をどう使いこなし、「信頼」を貯めることができるか。
その信頼を得ることを評価と呼んでいるように感じた。

・ページランクを人に置き換える ヒューマンランク的発想
Googleが定めているページランクの概念は、評価の高いページからリンクされていることが高評価につながるという仕組みである。つまり、これは人にも置き換えられる。
素晴らしい人は素晴らしい人を知っている、という考え。
ただ、これは今までにも存在した概念というか、そうなっている。
ソーシャルネットワークはそれをオンライン上に可視化した。
つながりを明確に、透明にした。
例えば、ツイッター上のやり取りは、閉じられたメールと違い、開かれたオープンなコミュニケーション。誰もが目撃することが可能。


・それらを統合した社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)という概念
人の関係性が変容したり、価値観が変化していく中で、重要な資本は
貨幣から信頼や人間関係といった社会(コミュニティ的な意味)を構築する要素に変わっていきつつある、という話。
もちろん、貨幣が要らないという話ではない。
実は、ソーシャル・キャピタルは田舎の方が多いとされており、簡単に言うと
「田舎は近所のじっちゃんばあちゃんが米たら野菜やらくれるので、お金を使わなくても
そこそこ生きていけるってこと」に近いと思っている。

・ほんで、どうする?って話。
このイベント自体、使っている言葉は基本的に抽象的な言葉が多く、
ところどころオモシロ具体例が出て来て、皆さんついてきてくださいね!という感じ。
僕はめちゃおもろかったけど、背景情報を共有できていないと多分ついてこれない。
話の内容がつながっているので、躓いてしまうと落ちこぼれてしまう。
たこ大は意外と厳しい。

フォロワーが2万にいても、価値はないわけですよ。その数字自体には。
誰とどんな関係にあるか、いわゆるエンゲージメントがソーシャルの鍵。


僕としては、
・やっぱオモロイかどうかがすごく大事で、常に「これはおもろいか?」の視点を持つべき
・多層化しているレイヤーで自分のポジションを理解し、異種のつながりを創り、価値につなげられるか
・規模感を掴む想像力を持つ・磨く・試す
・もうちょっと「ツッコまれる」
・ブログに自分の蓄積をつくり、分身としてウェブに常駐させる
みたいなとこが結論かなー。

でも、やっぱり良かったのは知的刺激で、あの後
本屋に行き、二冊買ってしまった。

だから、僕らはこの働き方を選んだ 東京R不動産のフリーエージェント・スタイル
グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

なんかまだ漏れていることがいくつかあるような気がするんですが、
思い出したらまた書こう。

気になる人はアーカイブをどうぞ。
500円と有料ですが、それぐらいの価値はあるはずです。

2011/12/18

ボランティアの映画を見て、思い出したこと

「マジでガチなボランティア」という映画を見た。
簡単に言うと、ギャル男がカンボジアに小学校と医療所を立てるボランティアの話である。

大学生ならば、刺激を受けたかもしれない。
だが、今の自分にはあまり刺激はなかった。正直なところ。

ただ、見ていて、その学生団体という組織の運営の難しさや葛藤には非常に共感した。
ちなみに僕はイベントサークルが嫌いである。
なんとなく途上国支援も嫌いである。

でも、代表者の葛藤はよくわかった。
というか、自分の体験を重ね合わせて見ているから、
正確に言うと、映画の主人公の葛藤を理解している訳ではなく、
学生時代、自分が代表をしていた頃を思い出しただけなのかもしれない。

金銭的な対価のない、ボランティア組織はモチベーションをうまくマネジメントしないといけない。
メンバーがどんな人で、何を求めてこの組織にいて、どうなりたいのか。
代表というリーダーはメンバーに対する深い理解が必要となる。
金銭的な対価の発生する仕事や会社でも、それは同じなのだけど、
お金という尺度、インセンティブの存在は大きい。

学生時代、ビジネスプランや政策を考えて、フォーラムという形でイベントをしていた。
わずか500円の参加費を取るかどうかで議論した。
冷静に考えると、そんなに議論することではないのだが、
その議論に至る背景があったし、そこで意見対立することは組織としての活性化になったと思っている。
少なくとも、「代表がトップダウンで決める組織ではない」ということは周囲も理解してくれていたと思う。
そして、あの意見の奥にある価値観やモノの見方をぶつけあったことは無駄ではなかった。


思い出した。
社会人の先輩が言っていたこと。
「リーダーには、孤高という名の孤独がある」

僕はそのとき、高みにいけたかどうかわからないけど、
周りには理解できない苦しさや孤独はあった。

リーダーとして、それを乗り越えることが成長につながるのかもしれない。
組織のリーダーではなくても、自分が自分自身のリーダーであるという考えもある。
名著「リーダーシップの旅」には、リーダーシップの第一歩は「Lead the self」だと書いてある。

僕はこの言葉を時々思い出す。
今の自分の行動は誰によって導かれているのだろう?
自分は本当に自分で考え、目的を達成するために動いているのだろうか?
考えているのだろうか?と。

小学校をたてることが偉いことだろうか?
行動したことが偉いのだろうか?
または、ボランティアをやれば良いのだろうか?

違う。
大事なのは、自分が思ったこと・考えたこと・疑問に思ったことを
形にしたということではないだろうか。

ある教育の考え方に、コンストラクショニズムというものがある。
人は何かを創る時に学ぶというものである。
ものを創って、そのものに意味付けをする。
デザイン思考における、プロトタイピングも同じ考えだという。

実は、考えるよりも創った方が学べるのである。
状況によっては、行動も一緒かもしれない。

本当に良いことかどうか、やりたいことかどうか、
まずはやってみる。
その後で、方向転換するなり、改善するなり、やめるなりする。
ただ、おっさんにもなってそういうことをしてたら、怒られるどころではすまない。
なので、ある種若いうちの特権のような気がする。


自分の数年前を振り返って、
なんか青臭かったなーとか、
無駄に尖ってたなーとか、
思ったと同時に、
「今の俺は、ちゃんとやれてんのか?」
と昔の自分に聞かれたような時間でした。

上映された皆様、お疲れさまでした。

2011/10/18

絶え間なく進んでいく

週末にはまとめて、何かを書きたい。
けれど、今思ったことは書き留めておく。

・子どもには体験をさせ、大人は意味づけをせよ。
自信を持たせることではなく、自信を保証する。
意味づけは一つ上の世界を知っていれば簡単だが、そうでない者にとっては難しい。
※もちろん、誰しもが「そうでない者」になりえる

・まずは承認を。
アイデア、意見、主張、その前に存在を認める。
話を聴く、向き合う、時間をともにする、些細な変化を確認する。
実はすごく大事なのかもな、と。

・他者のフレームワーク。特に社会という見えない者のフレーム。
みんなが使っているからと言って、そのフレーム(枠・視点・仕組み)の正しさは保証されていない。
集合知は必ず機能するわけではない。むしろ衆愚。
自分で考えた結論に対する恐れと、周りと同じことを選択する安心はリスクで見ると、逆。

・ワークショップ。むしろ、プレイショップ。
プレイ(遊び)の要素が大事、ゲーム性も。
ゲーミフィケーションを調べていて、非常に面白いと感じた。
学びと遊びはうまく組み込む。
学びを遊びの中に組み込む。遊びを学びの仲に組み込む。
学んだことを遊べるか?遊んだことから学べるか?

・経験の短期価値と長期価値
すぐに「よかった」と思える経験と、時間がたって振り返った際に「よかった」と思える経験がある。
短期的に表出する価値においては、「だまし」の要素もある。
経験をしかけた方も、経験をした方もだます側にまわる。
無意識にポジティブに紐付けてしまうから。つまり、確証バイアス。




この2ヶ月で、中学生・高校生・大学生・社会人の「教育(学習)」に関わっている。
もちろん、その属性より、個々のコミュニケーションが大事である。
教えるほどの人間ではないので、一緒に学ぶべく関わるというスタンスでありたい。
それは自分が一番の学習者でなければならないことと同じだ。
そこは見失っちゃいかんよね。

2011/09/17

なぜ問題を解決できないのか

最近、問題解決能力に関するワークショップを二度ほど企画・実施した。
片方は大学生向け、もう一つは社会人向け。特に後者は20代~60代と年齢幅があり、参加者は多様。
使える時間が違ったので、内容の細部はけっこう違うのだが、
どちらもそれなりの評価を頂いた様子。

内容を簡単に説明すると
論理的な問題解決について
1.問題の設定
2.原因の構造化
3.打ち手(解決策)の創案
のような流れで説明しながら、それぞれにワークを挟む。

簡単に言うと、
1.問題は何か?
2.それにはどんな原因がどう関係しているか?
3.根本的な原因を解消するアイデアは何か?
ということ。

表現を平易にすると、実はけっこう当たり前のことだったりする。
この流れに則ると、問題が解決できない場合
1.取り組む問題を間違えている
2.原因を把握できていない
3.解決策が間違っている
の3つに集約できる。

しかし、実際に「問題を解決できない」状況を見てみると、
「そもそも問題を解決しようとしていない」であったりする。
スキル・技能ではなく、マインド・心持ちが足りていない。
さて、どうしようか。この「問題」

「問題を解決しよう!」と思わないのは何故か?
それは問題意識がないから、なのか? そもそも問題意識とは何だろうか?
問題を意識すること、問題を意識する思考・姿勢といったものだろう。
「問題=理想-現状」なので、「理想を描ける」「現状を把握できる」という思考や認識する姿勢のことだろう。しかし、それらは問題定義のスキルであって、問題解決の意欲とは別の話である。

これまた意欲というわかりにくい領域なのだが、考えていくと
人が動く際は「したい」か「しなければならない」のどちらかである。
つまり、意欲にはポジティブなメンタリティとネガティブなメンタリティしかない。
できることなら、前者の方で主体的、創造的に取り組むほうがよいだろう。
では、「したい」と思えない人はどんな風になっているのか。
「したい」と思えない人の多くは、問題を回避していたり、解決を誰かに頼ったりしていることがほとんどである。そして、例外なく自信がない。
そもそも問題を解決した経験がない・少ない、と考えられるし、
壁にぶつかって突破した経験、成功体験が少ないとも言い換えられる。

学校のテストと違って、問題解決には100点が存在しない。
何を以って成功と言うのかはステークホルダーが決めることである。
「成功体験が自信になる」というのは、その経験だけでなく、枠がない中で試行錯誤をした結果
何らかのことを為し得たというプロセスに対する自信なのかもしれない。

意欲がないという状態は、問題を解決した時の状況を想像できないことではないだろうか。
もちろん、それは成功に限らず、失敗したときの悔しさかもしれない。
誰だって失敗はするし、そんな万能な(問題解決の)スキルはない。
失敗を恐れずに挑戦できるか。
それは目の前の壁やそれにぶつかる際の痛みを越えた先に、
美味しい果実があると知ることが大切なのかもしれない。

どうしても基本的なことは「教える」傾向が強くなってしまう。
それをうまく学習して、活用してもらわないと、
すぐに記憶から消えるし、ただの情報として処理されても意味がない。
いかにして、自分ごとだと意識してもらえるか。
問題を回避する姿勢から、解決する姿勢に切り替えてもらえるか。

その入り口をうまく創りだす必要がある。
結局変えるところ、引き出すところは、
マインドセットやモチベーションだったりする。

これも一つの問題解決だな。もうちょっと考えてみよう。

2011/08/29

仕事とは何か




仕事とは何だろうか

誰かの役に立つこと
誰かとの約束
付加価値を結ぶ契約
働き
傍を楽にすること

仕事とは信用なのか?
お金は信用を具現化したものとも言える。
ならば、お金を介した取引、つまり仕事は信用の交換と言えるのか。

社会における、仕事の位置づけ。

抽象概念において、抽象的な言葉をおいても
的を射る答えを見つけるには至らない。

個別具体的な仕事は全て違っている

例え似ているものでも、取り組む人によって質が変換するし
同じように扱えば、それは質を落とす
関係することは全て違うのだから

仕事はその状況における関係性に強く影響を受ける
というよりも、その関係性の構築に作用するものではないか

付加価値とは、何かに対して価値を付加することであって
付加される対象を指す言葉ではない

付加されている対象とは、AとBの関係であり、
その関係性を変質させるものが仕事

それには信用が大きく、強く関わる

仕事とは作業ではない
作業は仕事を構成する一部であり、例えば思考も同じである

仕事というのは、相手との関係性を進化させるものであり、
必ず自分以外の当事者がいる

それは誰か
そして、何を求め、どんな役割を期待しているか

プロセスの共有
スタンスの確認
アウトカムの合意

ちゃんと関係性を良くしようとする準備はできているか

あなたの仕事は誰のために
あなたの仕事は誰をどう幸せにするのか


2011/06/14

置き換え

セミナーなどに参加する際に「知識を得る」ために来ている人は本を読めばいいのではないか?
とふと思った。
知識、もっと言えば情報を得るだけならいくつも方法はあるだろう。
人から直接情報を得るならば、そこに噛み砕くこと(解釈)が必要だし、
質問することや自分に置き換えること、もっとざっくりと言うと「考えること」が必要不可欠だろう。
しかし、単に情報を得るだけで満足する人は多い。

と考えたときに、果たして自分は違うと言い切れるのだろうか、と思った。
本を読んで、新しいことを知って、それで満足していないだろうか?
その情報を疑い、自分のなかで納得いくように噛み砕いているか。

何でも自分に置き換えてみる、自分のまわりのことにつなげてみる。
そういった想像力を使いながら、考えることを止めてはいけないと思った。
想像と思考の歯車を回して、行動というタイヤを回すこと。

2011/06/10

Right vs Right

正しさは何に基づいているかがとても重要だと思う。
倫理的な正しさ、手続き的な正しさ、立場的な正しさ。

どれも正しいが、時と場所と状況に照らし合わせると、正しくなかったりする。
RightとRightがぶつかると、それは戦いになる。
誰も悪くない。悪いのは、正しさがどの正しさなのか見えていないこと。
見ようとしていないともいえる。

正しさを疑ってかかる大切さ。
それは信用するなという意味ではなく、信じて良いのか確認しろという意味。
みんな、正しさの前では盲目的になってしまう。

聞こえの良い言葉、正論、大義名分。
正しそうなものは、正しいかどうか一度考えてみること。
戦う前に、正しさをひっくり返してよく見てみる。

2011/04/25

1年前を思い返して、気付いたり

僕は1年前、大学を卒業して旅に出ていました。
別に、自分を探しに!というわけではなかったのだけど、
もっと色んなことを知りたくて、色んなものを見たくて、九州をまわっていたのです。

ちょうど一年前の今日(4月25日:日曜日)
熊本の人吉から鹿児島に来たのでした。

旅に出たのが、4月11日。
2週間目にして、鹿児島にたどりついたのです。
旅は合計21日だったので、
鹿児島以降はけっこう急いでいたような覚えがあります。


知覧にいく。
桜島を見る。
大隈に廃校を見に行く(これだけアポがありました)

あの時、カーナビを見ながら通過した道路。
駐車場を探そうとウロウロした道。

僕はそこに住んでいるのです。
当時に立ち返ってみると、すごく不思議です。

その時、僕は鹿児島に住んで、鹿児島に住んでいる人たちと接し、
鹿児島という土地で生きることをまったく想像だにしていなかった。

今の仕事だってそう。
そのときには、影も形もなかった。

そのときの自分には何があったのだろうか?
僕は一年前、何を思い、何を考え、何を感じていたのだろう。

そんなとき、twitterでつぶやいていた言葉が記憶を引き出すキッカケとなって、
当時の状況を思い出させてくれるから、これまた不思議です。

1年という時間を経て、
出会った人たち、
お世話になっている人たち、
声をかけてくれる人たちに
ちゃんと感謝したいなと想いが芽生えています。

出会いや感謝という言葉は気恥ずかしいのだけど、
そういう言葉しか思いつかないのだから仕方ないのです。

自分にできることをやる。
自分の役割を果たす。
自分の力を信じる。

Iという主語を用いて語ることも大事なのだけど、
その言葉に目の前の人を含めることが大事なのかなと思う。

可能性を信じる。
僕が忘れずにいたいこと。

未だ来ていない事実を見通す。
誰かの可能性のために、自分の可能性のために。
楽しむことを忘れずに。

ふと、そういうことを思い、考えた夜でした。

2011/04/04

走り抜けていく季節

春というのは、よく言われるように出会いと別れの季節です。
年度という区切りを境目に、どこかへ行く人、どこかから来る人、散る仲間、集まる仲間。
ご縁があるというけれど、つながりを僕らは縁と呼ぶ。
奇しくも季節は、桜の花が散り、緑が生い茂る季節へと徐々に移り変わる。

新しい緑との出会いを縁といったのだろうか。
そんなことをふと考えます。

僕の場合、新年が明けるタイミングよりも、
年度が変わるこの時期のほうが気持ちが昂ぶるような気がします。

去年の今は、何も決まっておらず、どういうチャレンジをしようかというパッションの前に、
果たして自分は何かできるのだろうかという不安がありました。

地元で地域おこしというものに関わるのか。
どこか違う国に旅立つのか。

僕はたまたま九州を見て回ろうと旅立ち、そこで偶然の出会いに遭遇しました。
それを偶然というのか、必然というのかはわかりません。

ただ、縁もゆかりもない鹿児島という地に来ようと思った正直な理由は覚えていません。

おそらく僕の直感は「このチャレンジは今、ぼくがすべきチャレンジである」と感じたのでしょう。

鹿児島に来て11ヶ月。そろそろ1年がたとうとしています。

僕はチャレンジできていたのだろうか?
等身大の挑戦だと思いつつ、小さくまとまっていたんではないだろうか?
何も為せていないんではないか?

不安というよりも、確かな何かを求めていたように感じます。

そんな漠然として想いを抱えていた中、先日ある起業家との出会いがありました。
リスクをとって戦うこと、ビジョンを純粋に追求すること、徹底ラインの徹底。

ぶつけられた生き様に打ちひしがれていました。

なぜ、僕はやっていないんだろうか?

そして、ある言葉を思い出しました。
「支援者ばかりで、プレイヤーが少なすぎる。」
「10年後がわかるやつと付き合っても面白くない。君は10年後どうなっているだろうか?」

そんなかっこいい背中を思い出しました。
その人もまた、リスクをとった起業家でした。

僕は起業家という職業ではなく、生き方に対して共感し、憧れを抱いているのかもしれません。

「自分のやりたいことをやる」
これは下手をするとただのエゴでしかありません。

仕事としてやりたいことをやる、というのは、誰かが求めていることという前提が絶対です。
前提が明らかなではない状況でも、間違えるリスクをとって攻める。やってみる。

もちろん取り組みたいテーマや問題意識もあるけど、自分の立ち位置みたいな話だと思う。
ファーストトラッカーなのか、フォロワーなのか。

そんなぐちゃぐちゃを考える前に、自分は自分が考えたことを誰よりも早くやりたいと思った。
屁理屈よりも、そっちの方がある意味ただしい。

文章としてまとめる気も、メッセージを明確にする気もない。
ただひたすら、この今一瞬を、この季節を、この時代を、しっかりちゃんと走り抜けたい。

2011/02/12

コミュニケーションの陰に潜むコンテンツという大事なこと


コミュニケーションとは、メッセージや想いを伝えることである。
そのコンテンツ(伝えるもの)とコミュニケーションは車の両輪のようなもの。
研究熱心で喋りベタな教授や、とにかく話すだけの近所のおばさんは
2つのバランスが悪い顕著な例ではないだろうか。


就職試験のグループディスカッションで発言できない学生がいる。
上記の考えでいくと、その人には3つのパターンがありそうだ。
1.伝えることはできるが、そもそも考える力が弱い
2.考えてはいるが、伝わるように発言できない
3.どちらも出来ない

つまり、その人には「考える力」と「伝える力」を適切なレベルで教え、伸ばす必要がある。
教えるというよりも、型を覚えて練習を繰り返すイメージに近い。

何かの能力を高める時に、手法を学習だけにフォーカスしてしまうのは危険である。
練習なき学習は“わかったふり”を生み出し、学習なき練習は“練習のための練習”を生み出す。

教えるという言葉はついつい学習という言葉を連想させる。
しかし、必要なソリューション(解決策)は練習であるケースが多い。
頭だけで考えがちだと、学習が全てのソリューションだと思い込み、学習の手法などの詳細にこだわる。
そもそも必要なことが練習だった場合、その手法はほとんど意味がない。
これは学習と練習を入れ替えても同じことがいえる。
とにかく練習をすべき!と体育会系のノリで動き始めても、誤った満足感と徒労に終わる。

“人脈をつくる”や“有名になる”という行動もコンテンツ×コミュニケーションで読み解くと面白い。

「学生のうちに社会人との人脈をつくっておく」
実際に僕が大学二年生の時に思っていたことだ。
しかし、実際に社会人の先輩たちの議論を間近で見て、自身の考えが間違っていたことに気付いた。
彼らが僕と人脈をつくる意味がないのである。
つまり、コミュニケーションすべき理由がない。
僕は自身を高めなければ、この人たちとはつながれないし、この人たちの背中に追い付けない。
そう思った。
すべきことはコミュニケーションではなく、コンテンツだと気付いたのである。

人脈の話は“有名になりたい”という話に近い。
“有名になりたい”というのは、より多くの人に“自分を知る”というコミュニケーションをとってほしいということ。
そこで、「伝えるべきあなたは一体どんなあなたですか?」というコンテンツの有無が問われる。
その問いに耐えられる答えを持ち合わせているなら、有名になることに力を注ぐべきだろう。

コミュニケーションに焦点を当てているが、コンテンツに課題がある。
そういった例は枚挙に暇がない。

ただ、コンテンツとコミュニケーションは厳密に区分けできるものでもないし、
常にそれを明確に分けるべきでもない。

例えば、コミュニケーション自体がコンテンツになる場合がそうである。
広告代理店やPR会社のコミュニケーションビジネス、
会員同士のコミュニケーションが価値になるソーシャル・ネットワークなどがそうだと言える。

と、コンテンツ×コミュニケーションについて書いてきたが、
実はこれにコンテクストが加わると僕は思う。
コンテクストとは、文脈、背景、意図、暗黙知といったものだ。


続々と登場する新たなWEBサービスはコミュニケーションを主軸にしたものが多い。
そんな環境変化のなかで、コミュニケーションではなく、コンテンツを創り出す力や経験、
コンテクストを読み取る力の重要性が高まっていくのではないだろうか。
そんな気がしている今日この頃。

2010/12/09

「学び」と向き合う

学びの質を考える。

「本を読んでいます」「○○を勉強しています」
非常に聞こえがいい。でも、その前提には「何もしないより」という意識がある。
本をたくさん読めば、賢くなるのか?
仮に賢くなったら、それでいいのか?
たぶん人が生きる目的は賢くなるためでも、本を読むためでもない。
そもそも人が生きる目的・理由なんて、人それぞれだし、
そこを考えてもしょうがないのでそこは保留。

でも、なぜ学ぶのか?そこはハッキリさせたい。

語源的に、学ぶは“真似ぶ”から来ているという。
人の学習過程は模倣からスタートする。
例えば、赤ちゃんは親の行動を真似て、ヒトから人間へと成長していく。
社会動物としての言葉や行動を模倣することで、自分のものにしていくのである。
ヒトとしての初期の学びは「真似からの体得」である。
つまり、「使える」ようになっている。

ここで話を戻すと、
「自分が学んでいることは使えるのか(使えているのか)」という問いが生まれる。

学ぶことに溺れるというか、趣味としての学問になっているのではないか?
もちろん、趣味としての学びや読書を全否定するわけではない。

あなたの時間(若さ)は限られているにも関わらず、
学ぶための学びは本当に今必要な学びなのか、と。

 という問いを意識しつつも、学びには質としての面と量としての面がある。
万物に「量的変化が質的変化につながる」というルールが適用されると思わないが、
どんなジャンルにおいても、コツややり方を習得するには絶対的な時間が必要である。
もっと言えば、学習と練習の違い。
頭で覚える、しくみを理解する。これは学習。
覚えたことを実践する。しかし、うまくいかない。トライ&エラーを繰り返す。これが練習。

スポーツなんかだと学習と練習は非常にわかりやすいのだが、
それが学問や読書みたいな思考・概念系になると途端に「練習」を忘れる。

書いていて思ったのは、
量としての学びが学習(座学)で、量としての学びが練習(行動)なのかもしれない。

アカデミックスマートなのか、ストリートスマートなのか、の違いにも近い。

バランスなんだと思うし、個々で違っていいと思う。
ただ組織の構成メンバーで補完し合える形がベストなんだろうなと、ふと思う。
「異端」を受け入れるということは組織を強くする一つのポイントなんだろうな。
一個人としては、真っ向から衝突しそうだと思うが。

本当は学びの出口についてメモ的に書こうとしていたのが、脱線した。

2010/09/26

想像の外

自分が考えたり、想像したりする領域がある。
「その領域の外にあるモノや考え」を提示されたときに、おおよそ3つのパターンがある。
思考停止になるか、噛み砕いて自分の領域に持ち込むか、自分の領域を拡大しそれを受け入れるか。
一つ目は論外として、あと二つは自分の土台がどのレベルにあるかによって変わるような気がする。

土台とは考え方、考える範囲というフレームみたいなもので、
そのフレームを常に変化するものとしながら、仮定として機能させる。

自分の領域、つまりそのフレームがどれだけ上書保存され、着実な進化を遂げているか。
そして、それが通用するクオリティがどうか。

噛み砕いて持ち込むのは、まだ先の話のように感じる。
自分の領域を拡大し続け、自分の軸足をどこに置くかを決める。

まだそれから変わることもあるだろう。しかし、ここだ!と決めるべき点があるはず。

逆に言えば、それすらも決められない己の未熟さに腹が立つ。

焦らず、小さくまとまらず、それでも素早く、大地を踏みしめねば。
相反するようで反しない思考と行動を兼ねること。

これが難しい、悔しい。

2010/07/27

創り出される「共感」


人は想いを共有すること、共感を求めるのではないか。

ソーシャルメディアの台頭で、そういった”雰囲気”を感じた。

色々な場や話で、「多様化」というキーワードを聞く。
日常を振り返ってみると、
食べ物、服装、音楽、雑誌、色々なモノの好みが分かれてきている。
つまり、「みんな一緒」から「みんなバラバラ」に変わってきている。
もちろん、セグメントとして存在するような層もある。
ただ、以前と比較して。の話である。

みんなバラバラな一方で、精神的な部分で”つながり”を持ちたい。
そんな想いがあるのかもしれない。

で、僕個人として「共感」という想いを非常に面白いものだと考えている。
 
「この情報はみんなに知らせたい」
「あるある!」
「確かに」 「同意」

こういった言葉の背景には、共感がある。

例えば、AさんとBさんが共感する際、情報の発信者と受信者がいる。
これは意外に双方向というよりも、一方的のような気がする。
 
「共感させる」側と「共感する」側。
ある意味、リーダーシップとフォロワーシップのような関係だ。

ここで、発信者サイドにたって、共感を得る方法を3つ考えてみた。
 
1、未来を描く(=想像型)
受信者が想像できなかった未来を提示することで、受信者の世界を拡げる。 
別名、ドラえもんの四次元ポケット。
 
2、曖昧なものを断言する(=代弁型)
受信者の隠された想いを言葉として発することで、受信者のヒーローとなる。
別名、正義の味方。
 
3、人自体への強い信頼が存在する(=崇拝型)
受信者の崇拝的な信頼を得ることで、受信者に対して絶対的存在になる。
別名、教祖。
ざっくりこの3パターンに集約されるように感じた。
 
上記以外だと、「あるある!」という気付き提示型。
これは観察力に優れたツッコミやボケで、たまに見かける。
【参考】地獄のミサワ


 最後の方は少しふざけたが、共感を得るという行為は、
コミュニケーションやマーケティング、組織づくりにおいて、重要な要素だと思う。
もうちょっと深めて考えてみましょうかね。

2010/05/11

目的と結果を考える

手段が、自己目的化することは多々ある。
それは何故か?
人間とは集中すればするほど、熱狂し、盲目的になる。
すると、目に見える手段(行動)に囚われてしまう。

なので、何かに没頭する際には定期的に「目的」
を確認することが必要。

さらに、「目的」と「結果」を混同する事も多々ある。

「目的」を持たずして、「手段」に力を注ぎ、得られた「結果」もある。

偶然的な結果。

逆に、「目的」を持っていたが、それとは異なる「結果」が生まれることもある。

想定外の結果。

もちろん、目的通りの結果も存在する。

つまり、
(1)目的に沿った結果
(2)目的とは異なる結果
(3)目的なしに発生した結果
が存在する。
※「結果が出ない」というパターンもあるがここでは考えない。


素晴らしい結果というものは輝かしい。

自分もそんな結果が欲しいと無意識に思う。

しかし、その結果が「どんな目的のもとで、どんな過程で、なぜ生まれたのか」を考える事を放棄してしまう。

人は考える葦だが、考えない葦でもある。


本を読むと、「常識を疑え」と書いてあったりする。

この常識とは、先人の結果の積み重ねである。

常識の生成過程を辿る事が、「常識を疑う」前の「常識を理解する」という大事なプロセスのように感じる。


新しい常識を創り出す。
その維新の志は、世をどう定義するかが鍵だと思う。

ランサー