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2012/09/21

未来の学校って何だろう? The future school will be what?

ツイッターで思いつきを垂れ流していると、
このままでは脳が腐ると思い始めてきたので、文章を書こうと思い、久しぶりのブログへ。
書こうと思う事はいくつかあるのだけど、取りかかりまでに時間がかかってしまう。
そんなに難しく考えず、気軽にやろうと思い直したのです。

最近、新しく人と知り合う機会が増えてきました。
それもそのはず、住む場所が変わったのだから当たり前ですね。
ソーシャルメディアでつながっていない方もいるので書いておくと、
6月末に実家の宗像市に引っ越し、8月中旬に福岡市に引っ越しました。
なので、今の生活パターンになってから、1ヶ月くらいです。


で、タイトルの件へ。

未来の学校って何だろうかと最近ぼんやりと考えています。
そのきっかけとなったのは、ある体験と1冊の雑誌でした。


他県から来た小学生とキャンプをした時に、宗像市のことをあれこれと聞かれた。 その子は宗像の名産や観光スポットについて、僕よりも詳しかった。  僕だって地元だし、24年間いた土地なんだけど。彼はGoogleで調べたと言っていた。 自我を持って話せる小学校高学年に、本当のデジタルネイティブを感じた。そして、この子たちに公教育は対応しきれていないのではないかと疑問を持った。(facebookへの投稿より引用)

この小学生とのやり取り自体は、
「ああ、やっぱ最近の子どもってGoogleで調べるとか当たり前なんだなー」と思った程度でした。
しかし、先日Wiredという雑誌の「未来の学校」という特集を読んでいて、この体験と強く結びつきました。



この雑誌はぜひ読んでほしい一冊で、
特に教育や学習に携わる人、興味がある人は必読だと思っています(勝手に笑)
MITメディアラボの話を中心に、シンガポールのフューチャースクールなどの記事があります。
海外の教育へのICT活用はもうこんなに進んでいるのかと驚きました。
先進事例を読みながら、アタマに電撃のような刺激が走るとともに、
日本の教育が変わっていかない現状に恐怖に近い感情を覚えました。

教育へのICT活用は色んなところで叫ばれています。
イメージしやすいのは、デジタル教科書でしょうか。
学校で本の教科書を使うのではなく、生徒1人ひとりがタブレットを持って、
そのタブレットにいくつものアプリケーションが入っているような感じです。
デジタル教科書を始めとするICT教育には、賛否両論があります。
ただ、大局的に見ると、遅かれ早いかれデジタル教育は進んでいくと思います。
今教えている内容をICTというツールで教えるICT活用、
デジタル社会に対応するために必要な知識やリテラシーを学ぶデジタル教育、
この2つが主軸となるでしょう。

一方で、デジタルに浸りすぎると、弊害があるのでは?というのが
反対派の論です。もちろんメリットしかないという施策などはなく、
いかにしてデメリットをつぶすかという話だと思うのですが、そうはいかず。
デジタル化が進むシリコンバレーでは、以下のようなことが行われているそうです。


中学校のリポートはワード、プレゼンはパワーポイント、データの分析はエクセルが使われる。パソコンに内蔵されているソフトは、あくまで手段の一つにすぎない。宿題や課題に関しても、「コピー&ペースト」に対しては厳罰なペナルティーが待っているのは当然であるが、スカイプで友達に相談したり、グーグルで検索したりと、パソコンの利用は“教えられる”ものではなく、自然体で身に付くような仕組みになっている。

子どもたちは、ITをいかに使うかという道具の視点を学ぶそうです。
そして、デジタルではないアナログ視点の教育もまた面白いのです。

子供たちが通っている学校では、学校の裏庭に小さな農場(The Farm)があり、そこで動物を飼育して、野菜を栽培している。
 生徒たちはこの農場の運営を手伝い、そこでの収穫物を、毎週木曜日の放課後に開かれるマーケットで売り、売り上げを学校の活動に還元する仕組みになっている。裏庭の農場で小さな経済を学んでいるのだ。

1つのプログラムだけで終わらずに、全体のカリキュラムとして
子どもたちに必要なことを学んでもらうようになっているのでしょう。
この記事であったり、wiredを読んだりして、思ったことをその時こう書いてました。

そして、2つのことを思った。「デジタルではないアナログから学べること」を体験してもらう、そして、「デジタルをもっと使いこなし創造すること」に挑戦してもらう。大人は何かを教える立場から、子どもが何かを生み出す土台づくりへ移らなければならないのではないか。(facebookへの投稿より引用)

「“教わる”から“学ぶ”へ」というサブタイトルがあった。
世の中のデジタルへの変化をふまえ、この一言をしっかり考えてみたい。
それが「未来の学校」につながっているはずだと思うので。



2012/04/24

起業体験プログラム① 主体的に決める経験

一昨年、昨年の2年間、ある高校と協働させていただき、学校内で起業体験プログラムを実施した。
一言で言うと、文化祭の模擬店を株式会社のしくみを使って行うという内容である。

実は、こういった取り組みは日本のいくつかの地域で行われている。
公益社団、商工会議所、企業が経営する学校など色んなパターンがある。

運営を考えると、販売体験に絞ったり、最初の使えるお金を固定したりすると
プログラムはスムーズにいきやすい。

ただ、それでは面白くない。
というか、できるだけ忠実に再現してみたい。
その方が生徒はよりリアルな社会を体験できるはず。
仕組まれた学びよりも、偶然の経験の方が価値があるかもしれない。

そう思い、プログラムは縛りをできるだけ減らした。
「どんな商売をするか」
「いくら資金を調達するか」
「何にいくら使うか」
「株主への配当はどれくらいにするか」
「商品ラインナップはどうするか」
「商品の材料はどこから調達するか」
「社員への給料はどうやって計算するか」
などなど。

ほとんど自分たちで考えて決定するようなプログラムにした。
つまり、答えを教えてなかった。

ただし、答えを出すための方程式を教えるようにした。
例えば、来客数の予測。
いわゆるAIDMA的な考え方もあるし、
去年の売上を平均単価で割って推測するとか。
(※説明は噛み砕いてます)

まぁ、飲み込みの早いこと。
高校生の学習能力というか、学習スピードの速さ。
学生時代、勉強会サークルの代表をしていた僕は
入ってきたばかりの大学1年生が「どうやったら意見を言えるようになるか」
をよく考えて、彼らの成長をどうサポートするかを試行錯誤していました。

その記憶と照らし合わせると、
高校1、2年生の吸収力に驚くばかり。
純粋にその場にいることが楽しいし、面白かった。

一番嬉しいのは、彼彼女らが「自分で考え、決める」ようになること。
もともと考えているのですが、決める事ができないのが最初の印象でした。
正確に言えば、「思う」ことはあれど「考えていない」ということかもしれません。
決めてはいるけど、主体的に選択したのではなく、周りにあわせる、消去法で選ぶなど。

しかし、このプログラムはその選択方法では早晩行き詰まるのです。
なぜかというと、自ら選択肢を作らなきゃいけないし、変な選択をすると自分たちが困るからです。

実際に彼らは困っていました。
チームで壁にぶつかり、リーダーは自分がどうすればいいのか悩んでいました。
体育祭のような明確なルールや目標もない。
受験のような点数やノウハウもない。
これは、働いている人間の多くが一度は感じたことのあることではないでしょうか。

意図せずとも、結果としてドラマが生まれる。
それはこちら側が用意したことではなく、真剣にぶつかり合い、
考えて行動する彼らの思いから生まれます。



なんとなく書き始めた記事ですが、書いていて
僕自身もちゃんと振り返らないといけないなと思いました。

2012/04/10

NPOを退職しました




早いもので、もう4月になってしまいました。
あと1ヶ月で、鹿児島に来て丸2年になります。


3月末をもって、NPO法人ネイチャリング・プロジェクトを退職しました。
2010年6月に入社したので、1年10ヶ月在籍していたことになります。
僕は2010年3月に大学を卒業し、九州の各地域を回る放浪の旅に出ていました。
我が事ながら冷静に考えると、バカで向こう見ずだなと思います。
今、僕がそんな人に出会ったとしたら、その行動を肯定できるだろうか?と時々思い返します。



その旅の最中、鹿児島でたまたまお酒を交わした大学時代の先輩がいました。
その先輩は大学時代に僕が所属していた学生団体の2つ上の先輩。
在学期間は被っているが、団体への在籍期間が被っておらず、
僕が学生のときに2、3回会った程度でした。

しかし、彼の凄さはいくつかの実績と資料に残っていました。
僕の中で、学生時代のうちに彼に追いつくことは一つの重要な目標でした。
そんなこともあって、鹿児島で飲むことになり、嬉しさもあり、
こんなアホなことをしていて叱られるのではないかという怖さもあり、
待ち合わせに向かった記憶があります。
実際には、詰められました(笑)
しかし、そこで「鹿児島に来る気はあるか?」と一声かけてもらったことが
今の僕につながっています。


僕が旅に出ていなければ、
鹿児島を通過していなければ、
ツイッターをしていなければ、
あの飲みがなければ、
僕はここにいません。

それは人生全てがそうなのかもしれませんが、
住む場所を変えることはとても大きなことでした。
そんな偶然の出会いが僕が鹿児島に来るきっかけだったのです。


それから約2年。
生まれ育った福岡から、無縁の鹿児島という地へのIターン。
新卒で、NPO法人へ就職。
そこで、ソーシャルビジネス事業推進部という部署に所属し、
事業を立ち上げることに従事していました。

こう書けば、とてもかっこよく見えるかもしれません。
でも、実際はそんなにかっこよくも、簡単でもなかったと思います。
友人や後輩が普通に会社へ新卒入社し、愚痴を言っていたり、辞めたり、
いつしか夢を語らなくなったり、下積みをしていたり。
そんな状況から相対的に考えると、僕は良い道を選んだのかもしれません。
ただ、その比較はあまり重要ではないかもしれません。

なぜなら、良い選択をしたかどうかよりも、選択した道をより良いものにしていくことが
本質的には大事だと思うからです。
人生は、リハーサルがなく、常に本番。
「あの時、こうしておけば・・・」という議論は気休め以外の意味を持ちません。
人は持っている武器で戦うしかないし、選んだ道をより良くすることしかできない。
選んでない道を想うことはリタイア後の楽しみにでも取っておけばいい。
僕はそう考えています。

僕はこちらに移ってくる前日にSNSで日記を書いていました。
そこには鹿児島に来ることを決めた理由を記していました。

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決めた理由はいくつかあって
(1)5月始めにある起業家の方とお酒を飲む機会があり、
「プレイヤーが少なすぎる」という話を聞いたこと。
(2)そのNPOが非常にビジネス志向でベンチャー気質だったこと。
(3)縁も所縁もない土地でゼロから挑戦してみたかったこと。
(4)地方をまわって日本の危機を肌で感じたこと。
(5)リスクを取ってチャレンジしても、最悪死なないと悟ったこと。
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今になって読み返すと、若さ溢れる感じや世間知らずな感じがして、若干の恥ずかしさがありますね。
NPOやソーシャルビジネス(社会的課題をビジネス手法で解決すること)は一つのトレンドになりつつあります。
トレンド、本当でしょうか。確かに多くの予算がそういったところについています。
しかし、NPOやソーシャルビジネスという言葉や手法にとらわれてしまうのは非常に危険だと思います。

戦後の日本が復興していく中で生まれた企業には、公的な精神や公益を志した企業が少なくありません。
イギリスの小さな政府から始まったNPOやアメリカの過度な資本主義との対比として存在するソーシャルビジネスは、同じ文脈を持たない日本であれば、違う解釈が必要です。

大事なのは、何を為したいかであり、何を期待されているかだと思います。
株式会社やNPOは所詮乗り物でしかない。


「社会を変えたい」
「社会問題を解決したい」
こういった言葉はとても聞こえが良い。
そして、そこに想いがあれば、なお素晴らしい。

しかし、その社会とは何を指すのだろう。
問題とは何のことを言うのだろう。
何がどうなったら解決なのだろう。

そこに具体的な言葉や解釈がなければ、具体的な行動は生まれない。
つまり、何もよくならないし、何も解決されません。
当の本人も不幸になるし、周りが幸せになるとも思えません。
だからこそ、加熱するソーシャルビジネスブームは怖さも伴っているのです。

このように考えながら、自分自身が何をしていくのかを問い続けていきます。

この2年間で、様々な教育に関わらせて頂きました。
・高校生の起業体験プログラム
・大学生の就業力育成ワークショップ(発想力/課題解決/企画など)
・基金訓練生のソーシャルビジネス概論
・小学生向けの出店体験ゲーム
・中学生向けの学習支援サポーター
・地場企業の後継者育成塾のカリキュラム素案作成
などなど。

自分の立場でそれをやってもいいのだろうか?
自分には荷が重すぎるのではないか?
間違った方向にミスリードするのではないか?
様々な不安や葛藤がありました。

しかし、自分が悩むことは本質的に大事ではありません。
対象となっている方々がいる。受益者にとってベネフィットがあるか?
受益者が受益者たるように何をすべきを問い続ける姿勢が大事です。


その相手がより学ぶには?
良い気付きを得るには?
その瞬間だけでなく、活かせる何かを持ち帰るには?
その積み重ねを、真摯に考え実行することだけは貫き通せたと思っています。


「教育」と書きましたが、僕の中ではあまり教えるという意識はありません。
先にも書きましたが、意識していることは
「どうやって学んでもらうか、考えてもらうか、行動してもらうか」といったことです。

educationの語源は、ラテン語の「e(外へ)ducere(導く)」であるそうです。
教育とは知識を与えることではなく、
学習者の力を引き出すことであるとも定義できます。
※一方で、状況が違えば、詰め込みも大切だと思っています。
そう考えると、一般的な定義とは異なる意味の教育もあるのではないかと思うのです。
もっと個々の可能性を引き出せるような形の教育というものが。


駆け抜けた2年間でした。
ここで得た経験、お世話になった方々とのご縁をもとに
教育や学習、人の成長に関して関わっていきたいと思います。


桜が三分咲きだった4月2日に書き始めた記事ですが、
4月10日になってしまいました。
今宵の雨で桜の花は散るでしょう。


さて、新しい一歩だ!

2011/11/02

忘れられない夏の物語

明日(11月2日19:00〜)のMBC(南日本放送)「どーんと鹿児島」にて
社長は高校生~鹿児島修学館高校 文化祭~」という1時間のドキュメンタリーが放送される。

















今年の夏、このプロジェクトを通じて、僕は約70名の生徒たちと関わった。
進学校でありながら、学力だけではない「社会人基礎力」を育成する高校。
その取り組みは先進的であるが、それ以上に学校現場では
そういった社会人基礎力の育成が求められていた。

この「株式会社プログラム」では、リアルな会社を体験できるように徹底的に作り込んでいる。
さらに、生徒にとって大きいのは、多くのことを生徒自身が決めることだと思う。
売る商品、生産方法、価格、人材の配置、給与、利益分配、自分たちで全て考えて決める。
言うなれば、生徒自身で問題用紙を作って、答えを書いて、採点までして、反省までする。
付け加えておくと、これはただの模擬店ではない。使うのは“ヒトのお金”である。
そこには自由だけではなく、責任が伴う。どんぶり勘定の模擬店とは本質的に異なる。


社会人基礎力では、考える力、行動する力、チームワークの3つの要素をあげている。
今回、生徒たちはそれだけでは測れない、大きなものを学んだ。
それは社会がどう動いているか、会社がどう回っているか。
そして、その根本には「ヒトは一人では何もできない。だから、力を合わせる」という考えがあることを。



僕は外部の人間として、このプロジェクトに関わるなかでずっと考えていたことがある。
「10年前の自分が受けたい」と思えること。

押し付けられたことはいずれ忘れてしまう。
だが、自分で取り組もうと決めたことはずっと忘れない。
その差を主体性という。
主体性のない教育には先はない。

だから、迷う生徒たちを目の前にしても、
彼彼女らが考えて結論を出すまで待つことにしていた。



仲間とともにゼロから作り上げた会社。
伝えることがこんなにも難しいと知ったこと。
自分たちの意見を持って、行動する姿勢。
悔しくて涙を流した放課後。
自分の力が及ばずに、うなだれた日。
考えていたことを現実にできたチームワーク。
急なトラブルにも対応できた冷静な判断。
株主と社員の間で揺れた感情。
初めて給料を手にしたこと。





迷い、立ち止まり、考え、ぶつかり、黙り込み、
前に進むことをやめなかった彼ら。


その彼らが辿り着いた結論、一つの物語をぜひご覧ください
(鹿児島県内在住の方しか見れません)


2011/04/29

参加“意識”って何だろう?



参加意識はどうやったら生まれるのだろうか。
多くの“活動”と呼ばれるものが、組織内での「意識や行動」のズレに頭を悩ませる。
サークル活動、課外活動、会社活動・・・

このズレはその組織(グループ)で、当事者と傍観者に分かれているからだと僕は思う。
傍観者と当事者の大きな違いは参加意識の有無にあり、
その意識に基づく行動において大きな差が生まれてくる。

受動的な行動と能動的な行動はまったく生産性が違う。
言われたこと(ワーク・仕事)を100とすると、前者は8090になり、後者は110120になる。
前者はどんなに精度を高めても、天井が決まっているから100を超えることができない。

というけっこう自明なことを整理してみたのだが、
本題は「参加意識を持ってもらうにはどうすればいいか」である。


一言で言うと、「目的を持ってワークすること」だと思う。
ワークするとは、頭を働かせること、手足を動かすこと、体を動かすこと。
それでもまだ抽象的なのだけど、それよりも重要な「目的を持つ」ことについて。

イソップ寓話に「3人のレンガ職人」の話がある。
子供が3人のレンガ職人に「何しているの?」と尋ねました。
1人目の職人は、「レンガを積んでるんだよ」と答えた。
2人目の職人は、「壁をつくるのを手伝っているのさ」と答えた。
3人目の職人は、「大聖堂を建ているんだよ」と答えた。



同じワークをしていても、目的を持っていたり、全体像を把握していたり、
と意識(頭の中)に差がある。
ただ、これはいきなり「3人目を目指せ!」が正解かというと、そうではない気がする。

「レンガとは何か、どうやって積んでいくものか」を知らない人が
大聖堂を意識しても、しょうがない。

本当の一番最初は「レンガを積めるようになること」、
それができるようになる頃に大聖堂を意識できるといいのかもしれない。
という意味では、「目的を持ってワークすること」よりも
「ワークしながら目的を見つけること」方がより正しいと言える。


もう一つ、別の視点。
参加意識というと、僕の中ではワークショップが想起される。

ワークショップはまちづくりや教育において、
よく使われる有名な手法で、直訳では“工房”という意味を持つ。

似た言葉である“工場”が
「何を作るかが決まっており、作るプロセスを効率化する場」であるのに対して、
“工房”は「何を作るかから決めてつくりあげる場」である。

これを学びに例えてみると、
この時間で「何を学ぶかを自分で決める場」こそがワークショップではないだろうか。

誰かからもらったヨソモノの目的ではなく、自分が当事者として考える等身大の目的。



目的を自分でつくることこそ、傍観者から当事者へ変わるきっかけなのかもしれない。
といいつつも、実際問題として「目的をつくりましょう!」と言われても、
それこそ「目的をつくる目的は何ですか?」という問いが生まれてくる。

「目的や夢をつくろう、持とう、決めよう」という雰囲気・気持ちになることでしか、
純粋な目的は生まれないのかもしれない。

ならば、ワークショップとはつくるものを指示せず、
目的を引き出す・整理してもらうように踏み出す雰囲気づくりではないだろうか。

雰囲気と呼んでいる“もの”を「場」と言い換えても通じるように思う。


働きかけずに、働きかける。
直接ではなく、間接的に自走させること。

ワークショップだけが唯一解の解決策なのではなく、
そういった場があること、それを設計する人がいることが本当の意味で大切だと思う。

2010/10/05

教育手法を人材育成に

日経ビジネスの世界一優秀なミドルマネジャーは日本の課長 という記事を読んでいて
「ビジネススクールの教育が人材育成に応用できると気づく」という一文がふと目にとまった。


MBAで使用されるケースメソッドが人材育成に応用できるという話である。
さらに面白いのが、酒井穣氏の以下のコメント。

ブログの中で、「我が家の教育論」というタイトルで自分の娘に対する教育について書いているのですが、そのベースにしたのもビジネススクールの教育方法です。

つまり、酒井氏は家庭教育にケースメソッドを持ち込んでいる。
個人的に、「教育」と「人材育成」はお互いの領域に関する知識を共有すべきだと思っているので、とても面白い内容に感じた。

教育においての先進的な取り組みや企業での人材育成における有効な手法はどんどんオープンにし、共有され、活用されるべきだ。

そのためには、プラットフォームのような情報の土台か、ネットワークのような情報を持つ人や組織同士のつながりが必要だと思う。

とりあえずメモとして。

【参考】   

世界一優秀なミドルマネジャーは日本の課長

人材育成は経営そのもの、人事と経営の融合が始まる

そして企業はいよいよ“学校”になる

2010/07/24

今の教育に必要なコト、そのヒント。

先週末、藤原和博さんがゲストの「つなげる力」~学校と地域の懸け橋へ~に参加した。
プレゼンのうまさ、特に聴衆の巻き込み方に感動しつつも、
教育問題の本質を鋭く捉えた内容だった。

綺麗にまとまっていないものの、その講演のメモを綴ってみる。




















講演会場にて、購入した35歳の教科書―今から始める戦略的人生計画
も良かった。また別途で紹介したい。

__________________

「出来る子を伸ばして、ミニ先生にする」
→吹きこぼれ対策。

文科省や教育委員会は現場に任せたいが、校長が動かないので現場が変わらない。
校長には人事も予算も権限はないが、教育課程の編成権を持っている。

和田中では点の改革を、大阪府では面の改革を行った。
さらに他地域に広げ、立体の改革を行う。
東京では和田中の真似をする学校は一つもなかった。
変なプライドがあるのだろう。
そんなプライドは今すぐ捨ててほしい。何のためのプライドなのか?

僕は、目の前にいる子どもが
「わからないことをわかるように」
「出来ないことを出来るように」したい。
そのためには手段を選ばない。
塾であろうが、地域であろうが、使えるものは何でも使う。

今の小中学校は鎖国状態。
江戸幕府が鎖国していて、どうなったか皆さん知ってますよね?
学校は解放しなければならない。
学校で起きている問題の原因は、家庭や地域にある。
それらが一番弱い学校で吹き出ている。先生だけでは解決できない。
皆で先生を助けて、豊かな授業を実現しましょう。

子どもの多様化が進んでいて、教材での対応が無理になった。
昔は、出来る子、普通の子、出来ない子の三パターンで対応できた。
今は、算数が出来ない子だけで五パターンあり、先生が生徒を見きれなくなった。
問題なのは算数。最小公倍数と最大公約数の概念が弱い子どもが多い。

■驚愕の事実
1500円の三割引はいくらか?という問いに、47%の中学生が間違えた。
高校生になれば少し改善するが、二割程度は間違える。
彼らはコンビニで買い物する時に暗算ができない。
学力低下は、「社会で生きる力」にまで影響してきている。

算数が出来ない子の家庭は離婚問題を抱えている事が多い。
3、4人に1人が家庭に離婚問題あり。
算数は静かな環境で集中しないと出来ない教科なので、家庭がうるさいと成績に出る。

20世紀の成長社会では情報処理力が求められた。
21世紀の成熟社会では情報編集力が求められる。
よのなか科は
「正解が一つじゃない」テーマで、
「子ども(義務教育)と大人(生涯教育)が一緒に学ぶ」。
子ども達は、”大人がどう学ぶか”を見て、”大人がなぜ大人なのか”を知る。

子どもは「教えている大人」から学んでいない。
「学んでいる大人」から学ぶ。だから、学ぶ姿を見せる。
母親は子どもが帰宅する頃合いを見て、ウソでもいいから本を読む。
そうすると、子どもはそれを真似て、本を自ら読み出す。

■中高生がいるお父さん方、必読の魔法
反抗期の息子に本を読ませる方法。
「この本が良いから、読みなさい」と言っても、息子は反抗して絶対に読まない。
出来るだけ厚い本を”途中で断念したふり”をして、
「お父さんには難しすぎた」といって置いておく。
父を超えたい息子は勝手に読み出す。
あらゆる息子は父の弱みを知り、勝ちたい。

■思いやりの育て方
子どもにブレストを体験させる
→ くだらないアイデアが他者のアイデアと合わさり、素晴らしいアイデアになる瞬間を経験
→ 子どもは他人の意見が大事だと知る → 他人の話を聞くようになる。
「思いやりを持ちなさい」と抽象的な言葉を連呼するより、遥かに効果がある。

■学力と不良の関係
算数がわからないまま、小学校を卒業する → 中学校の数学がまったくわからない
→ わからないことを1時間も聞くのが苦痛になる → 保健室に逃げる
→ 同じような仲間がたまる → 保健室を追い出される → 隠れてたむろする
→ 学校に行かなくなりコンビニなどにたむろする → 悪い先輩とつるむ → 軽犯罪に手を染める

■プレゼンのメモ
プレゼンはリード(つかみ)が大事。
オーディエンスへの問いかけと挙手&拍手形式のアンケートから、
冗談を交えたクイズで一気に距離を縮めて、自分の世界に引き込む。
プレゼンの緩急とトーンを変えて、自分のペースに聴衆をノせる。
アイスブレイク型リード。文節でしっかり区切ってメリハリをつけて話す。

__________________


雑記になりましたが、メモは以上です。
藤原さんの講演には一度行くべきだと思います。

2010/07/21

「いま、先生は」

昨日、twitterでたまたまあるブログを読んだ。
僕はその内容に、愕然とした。
それは朝日新聞で始まった「いま、先生は」という記事について紹介したブログであった。

記事のタイトルは「孤立 命絶った教師」

新任から、わずか半年で自らの命を絶った教師。
その死は教育現場の歪みを現していた。 

おこってばかりいるうちに
私の顔が かわいそう。
おこってばかりいるうちに
私の人格 かわいそう。
神様 私を愛してください。
神様 私を助けてください。
神様 私に助け手を与えてください。
神様 私を愛してください。

 




詳細は以下をご参考ください。


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風にふかれて  
孤立 命絶った教師


スポーツ・遊び・からだ・人間  
日本の教育現場は「我とそれ」(ICH UND ES)に占拠されてしまったのだろうか。


ファイナンシャル・プランナー長峰ブログ 
いま、先生は

ちょこまかのブログ 
いま先生は(1) 
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教師や教師志望者だけでなく、
子どもを持つ親や全ての教育に関わる人が考える必要があるだろう。

今、現場で何が起きているのか。

2010/06/10

ラリーを超えるライバルの存在

テニスで、下手な人同士がラリーをしようとしても続かない。
なぜなら、打球がちゃんと相手のところへ行かないからだ。
相手も下手だと、変なところに来た打球を捌けずにミスをしてしまう。
だから、下手な人は自分よりも上手い人と練習しなければ、ラリーは続かない。

実は、物事の習得プロセスは殆どこれと同じである。

たとえば、論理的に考えることができない二人が議論しようとしても、
主張が組み立てられないので議論にならない。

では、どうすれば議論できるようになるのか?

まず、型を知らなければならない。
テニスでいえば、フォームを覚えるというところにあたる。

型を覚えた上で、実践(議論)していくのだが、その相手は自分よりも高等な技術を持つ人にすべきである。
それが上記のラリーにあたる。

繰り返し打球を打ち続けなければ、技を習得・向上できない。

上級者に胸を借りるというわけである。

しかし、これには大きな落とし穴が存在する。

ラリーが続くことを自分の力だと勘違いすることである。
状況を間違って解釈してしまうケースだ。

この状況では、
「相手の打球が打ちやすいところに来る」
「自分が打った変な打球を返してくれる」
という二つの要因がラリーを可能にしている。

ただ、これは相手(上級者)の技術に基づくものであって、自分の技術とは何ら関係のないことである。

これを議論に当てはめると、
「自分の意見が言いやすいように聞いてくれる」
「自分が言った変な意見を整理してくれる」
というような感じになる。

結果、議論がしっかりできたのは
『自分の思考力や意見をまとめる力が向上したからだ!』と勘違いする。

これは非常に危険なことだと思う。

そもそも技術が定着・向上していないこと、勘違いにより努力しないまま時間を浪費すること
が非常に勿体無く、無駄になっているからだ。

では、どうすればいいのだろうか。

私は”ライバル”の存在が成長を促進すると考えている。

たとえば、上記のテニスで言えば、
下手な人は上級者と真剣にストロークを打ち合っても、ほとんど勝てないだろう。
仮にその割合を20回に1回とする。勝率5%。
この割合だと、相手をライバルとは認識できない。

ライバルとは、自分と同等か、もしくはそれに近い技術(能力)と共通性を持った仲間である。
あまりに相手と自分との差があると、先生と生徒の関係になる。
これは教えてもらうことの方が明らかに多い場合に発生する。

ライバルを数値で考えると、20回に7~13回勝つぐらいだろうか。
勝率35~65%。3回に1~2回勝つレベルである。

これはかなり絶妙な数値だと思っている。
なぜかというと、3回に1回は必ず負けるからだ。
気を抜けば、負けるのだ。

この緊張感と”努力すれば勝てる相手との試合”は刺激に溢れている。

勝つことで体が興奮を覚え、負けることで体が実力を知る。
栄光と挫折の連続は、継続的な成長に貢献し、人を少しずつ着実に変えていく。


私は、『成長のキードライバーは外部刺激と内省のサイクル』だと考えている。
なので、成長を望む人には、上級者とのラリーよりも、ライバルとの切磋琢磨をお薦めしたい。

ランサー