学びの質を考える。
「本を読んでいます」「○○を勉強しています」
非常に聞こえがいい。でも、その前提には「何もしないより」という意識がある。
本をたくさん読めば、賢くなるのか?
仮に賢くなったら、それでいいのか?
たぶん人が生きる目的は賢くなるためでも、本を読むためでもない。
そもそも人が生きる目的・理由なんて、人それぞれだし、
そこを考えてもしょうがないのでそこは保留。
でも、なぜ学ぶのか?そこはハッキリさせたい。
語源的に、学ぶは“真似ぶ”から来ているという。
人の学習過程は模倣からスタートする。
例えば、赤ちゃんは親の行動を真似て、ヒトから人間へと成長していく。
社会動物としての言葉や行動を模倣することで、自分のものにしていくのである。
ヒトとしての初期の学びは「真似からの体得」である。
つまり、「使える」ようになっている。
ここで話を戻すと、
「自分が学んでいることは使えるのか(使えているのか)」という問いが生まれる。
学ぶことに溺れるというか、趣味としての学問になっているのではないか?
もちろん、趣味としての学びや読書を全否定するわけではない。
あなたの時間(若さ)は限られているにも関わらず、
学ぶための学びは本当に今必要な学びなのか、と。
という問いを意識しつつも、学びには質としての面と量としての面がある。
万物に「量的変化が質的変化につながる」というルールが適用されると思わないが、
どんなジャンルにおいても、コツややり方を習得するには絶対的な時間が必要である。
もっと言えば、学習と練習の違い。
頭で覚える、しくみを理解する。これは学習。
覚えたことを実践する。しかし、うまくいかない。トライ&エラーを繰り返す。これが練習。
スポーツなんかだと学習と練習は非常にわかりやすいのだが、
それが学問や読書みたいな思考・概念系になると途端に「練習」を忘れる。
書いていて思ったのは、
量としての学びが学習(座学)で、量としての学びが練習(行動)なのかもしれない。
アカデミックスマートなのか、ストリートスマートなのか、の違いにも近い。
バランスなんだと思うし、個々で違っていいと思う。
ただ組織の構成メンバーで補完し合える形がベストなんだろうなと、ふと思う。
「異端」を受け入れるということは組織を強くする一つのポイントなんだろうな。
一個人としては、真っ向から衝突しそうだと思うが。
本当は学びの出口についてメモ的に書こうとしていたのが、脱線した。
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