参加意識はどうやったら生まれるのだろうか。
多くの“活動”と呼ばれるものが、組織内での「意識や行動」のズレに頭を悩ませる。
サークル活動、課外活動、会社活動・・・
このズレはその組織(グループ)で、当事者と傍観者に分かれているからだと僕は思う。
傍観者と当事者の大きな違いは参加意識の有無にあり、
その意識に基づく行動において大きな差が生まれてくる。
受動的な行動と能動的な行動はまったく生産性が違う。
言われたこと(ワーク・仕事)を100とすると、前者は80~90になり、後者は110~120になる。
前者はどんなに精度を高めても、天井が決まっているから100を超えることができない。
というけっこう自明なことを整理してみたのだが、
本題は「参加意識を持ってもらうにはどうすればいいか」である。
一言で言うと、「目的を持ってワークすること」だと思う。
ワークするとは、頭を働かせること、手足を動かすこと、体を動かすこと。
それでもまだ抽象的なのだけど、それよりも重要な「目的を持つ」ことについて。
イソップ寓話に「3人のレンガ職人」の話がある。
子供が3人のレンガ職人に「何しているの?」と尋ねました。1人目の職人は、「レンガを積んでるんだよ」と答えた。2人目の職人は、「壁をつくるのを手伝っているのさ」と答えた。3人目の職人は、「大聖堂を建ているんだよ」と答えた。
同じワークをしていても、目的を持っていたり、全体像を把握していたり、
と意識(頭の中)に差がある。
ただ、これはいきなり「3人目を目指せ!」が正解かというと、そうではない気がする。
「レンガとは何か、どうやって積んでいくものか」を知らない人が
大聖堂を意識しても、しょうがない。
本当の一番最初は「レンガを積めるようになること」、
それができるようになる頃に大聖堂を意識できるといいのかもしれない。
という意味では、「目的を持ってワークすること」よりも
「ワークしながら目的を見つけること」方がより正しいと言える。
もう一つ、別の視点。
参加意識というと、僕の中ではワークショップが想起される。
ワークショップはまちづくりや教育において、
よく使われる有名な手法で、直訳では“工房”という意味を持つ。
似た言葉である“工場”が
「何を作るかが決まっており、作るプロセスを効率化する場」であるのに対して、
“工房”は「何を作るかから決めてつくりあげる場」である。
これを学びに例えてみると、
この時間で「何を学ぶかを自分で決める場」こそがワークショップではないだろうか。
誰かからもらったヨソモノの目的ではなく、自分が当事者として考える等身大の目的。
目的を自分でつくることこそ、傍観者から当事者へ変わるきっかけなのかもしれない。
といいつつも、実際問題として「目的をつくりましょう!」と言われても、
それこそ「目的をつくる目的は何ですか?」という問いが生まれてくる。
「目的や夢をつくろう、持とう、決めよう」という雰囲気・気持ちになることでしか、
純粋な目的は生まれないのかもしれない。
ならば、ワークショップとはつくるものを指示せず、
目的を引き出す・整理してもらうように踏み出す雰囲気づくりではないだろうか。
雰囲気と呼んでいる“もの”を「場」と言い換えても通じるように思う。
働きかけずに、働きかける。
直接ではなく、間接的に自走させること。
ワークショップだけが唯一解の解決策なのではなく、
そういった場があること、それを設計する人がいることが本当の意味で大切だと思う。