春というのは、よく言われるように出会いと別れの季節です。
年度という区切りを境目に、どこかへ行く人、どこかから来る人、散る仲間、集まる仲間。
ご縁があるというけれど、つながりを僕らは縁と呼ぶ。
奇しくも季節は、桜の花が散り、緑が生い茂る季節へと徐々に移り変わる。
新しい緑との出会いを縁といったのだろうか。
そんなことをふと考えます。
僕の場合、新年が明けるタイミングよりも、
年度が変わるこの時期のほうが気持ちが昂ぶるような気がします。
去年の今は、何も決まっておらず、どういうチャレンジをしようかというパッションの前に、
果たして自分は何かできるのだろうかという不安がありました。
地元で地域おこしというものに関わるのか。
どこか違う国に旅立つのか。
僕はたまたま九州を見て回ろうと旅立ち、そこで偶然の出会いに遭遇しました。
それを偶然というのか、必然というのかはわかりません。
ただ、縁もゆかりもない鹿児島という地に来ようと思った正直な理由は覚えていません。
おそらく僕の直感は「このチャレンジは今、ぼくがすべきチャレンジである」と感じたのでしょう。
鹿児島に来て11ヶ月。そろそろ1年がたとうとしています。
僕はチャレンジできていたのだろうか?
等身大の挑戦だと思いつつ、小さくまとまっていたんではないだろうか?
何も為せていないんではないか?
不安というよりも、確かな何かを求めていたように感じます。
そんな漠然として想いを抱えていた中、先日ある起業家との出会いがありました。
リスクをとって戦うこと、ビジョンを純粋に追求すること、徹底ラインの徹底。
ぶつけられた生き様に打ちひしがれていました。
なぜ、僕はやっていないんだろうか?
そして、ある言葉を思い出しました。
「支援者ばかりで、プレイヤーが少なすぎる。」
「10年後がわかるやつと付き合っても面白くない。君は10年後どうなっているだろうか?」
そんなかっこいい背中を思い出しました。
その人もまた、リスクをとった起業家でした。
僕は起業家という職業ではなく、生き方に対して共感し、憧れを抱いているのかもしれません。
「自分のやりたいことをやる」
これは下手をするとただのエゴでしかありません。
仕事としてやりたいことをやる、というのは、誰かが求めていることという前提が絶対です。
前提が明らかなではない状況でも、間違えるリスクをとって攻める。やってみる。
もちろん取り組みたいテーマや問題意識もあるけど、自分の立ち位置みたいな話だと思う。
ファーストトラッカーなのか、フォロワーなのか。
そんなぐちゃぐちゃを考える前に、自分は自分が考えたことを誰よりも早くやりたいと思った。
屁理屈よりも、そっちの方がある意味ただしい。
文章としてまとめる気も、メッセージを明確にする気もない。
ただひたすら、この今一瞬を、この季節を、この時代を、しっかりちゃんと走り抜けたい。
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