2011/05/07

365 to 366・・・



25歳の僕にとって、1年という時間は大きい。
自分を形づくる25分の1の時間だから。
というより、今までとまったく異なる状況に身をおいた1年は
若造には感慨深いものがあるのです。

1年前の55日。
鹿児島県内の知り合い、1名。
1人暮らし、初めて。
鹿児島に来たのは3回目。
家具、なし。
トランクケースとリュックサックのみ。

ほとんどゼロに近くて、ほとんど全て新しい。

「なんで鹿児島にきたの?」
と聞かれても、的を射る回答はできなかった。

自分を変えたくて、逃げてきたのだろうか。
それとも戦うためだったのだろうか。
思い出せるのは、挑戦したい!という思い。
あやふやだけど、どこかエネルギーを持っている言葉。
本当に僕は挑戦しているのだろうか。自分に甘えていないだろうか。
そんな気持ちはいつもどこかにある。
まぁ、たぶんサボり症だし、甘えてるんだろうけど。。。


本音を言えば、「1年したら地元に帰るのかなぁ」なんて思っていた。
明確にそう思っていたわけではないのだけど、
片付けてないダンボールは、僕の深層心理を表していたような気がする。
その考えに気付いて、無性に腹が立ってダンボールを片付けてやったのだ。

戦略とは捨てることだというけど、いろんなものを捨てると意外と前に進む力になる。
“捨てる”と“選ぶ”は同義語だから、選ぶことが前に進むことになってるのかも。
持たない推進力ってのがあるんだろうな。
一方で、持つことで生まれる責任も強いと思うけど。



話がだいぶそれた。よくあることだけど。

さっき風呂でボーッと考えていた。

あの高校に行ってなければ・・・
テニス部に入ってなければ・・・
浪人してなければ・・・
あの大学に入ってなければ・・・
あのバイトをクビになっていなければ・・・
あの集団に入っていなければ・・・
あのとき、代表にならなければ・・・
あの企業にそのまま入社しとけば・・・
留年しなければ・・・
あの面接で適当なこと言わなければ・・・
あのとき、旅に出なければ・・・

無駄な“たられば”を一通り考えてみたのだけど、
どれか一つの分岐点で違う選択肢をしていたら、
今の僕はきっと存在していない。
偶然のようで、必然的。

それは当たり前のようで、その背景には誰かがいて、
たくさんの助けや期待、逆に失望や悲しみもあったかもしれない。
自分という人間は1人でも、1人で成り立っているわけではない。
それは誰しもがそうなのだけど。

振り返ると、期待されていたのに力を発揮できないまま終わったことがいくつもあった。
そうじゃないときもあった。
その違いは何だっただろうか。
それは「僕自身が楽しんでいたかどうか」の差だったように思う。

全力で面白いと感じること・思えることを楽しむ。
それが自分のベストパフォーマンスにつながるし、期待に応えることになるのだろう。
そういう悟りを啓いて、いざ鹿児島2年目に突入!

※右上に写っているのはマンボウです。

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