"Some men see things as they are and ask why" "I dream of things that never were and ask why not"
2011/02/12
コミュニケーションの陰に潜むコンテンツという大事なこと
コミュニケーションとは、メッセージや想いを伝えることである。
そのコンテンツ(伝えるもの)とコミュニケーションは車の両輪のようなもの。
研究熱心で喋りベタな教授や、とにかく話すだけの近所のおばさんは
2つのバランスが悪い顕著な例ではないだろうか。
就職試験のグループディスカッションで発言できない学生がいる。
上記の考えでいくと、その人には3つのパターンがありそうだ。
1.伝えることはできるが、そもそも考える力が弱い
2.考えてはいるが、伝わるように発言できない
3.どちらも出来ない
つまり、その人には「考える力」と「伝える力」を適切なレベルで教え、伸ばす必要がある。
教えるというよりも、型を覚えて練習を繰り返すイメージに近い。
何かの能力を高める時に、手法を学習だけにフォーカスしてしまうのは危険である。
練習なき学習は“わかったふり”を生み出し、学習なき練習は“練習のための練習”を生み出す。
教えるという言葉はついつい学習という言葉を連想させる。
しかし、必要なソリューション(解決策)は練習であるケースが多い。
頭だけで考えがちだと、学習が全てのソリューションだと思い込み、学習の手法などの詳細にこだわる。
そもそも必要なことが練習だった場合、その手法はほとんど意味がない。
これは学習と練習を入れ替えても同じことがいえる。
とにかく練習をすべき!と体育会系のノリで動き始めても、誤った満足感と徒労に終わる。
“人脈をつくる”や“有名になる”という行動もコンテンツ×コミュニケーションで読み解くと面白い。
「学生のうちに社会人との人脈をつくっておく」
実際に僕が大学二年生の時に思っていたことだ。
しかし、実際に社会人の先輩たちの議論を間近で見て、自身の考えが間違っていたことに気付いた。
彼らが僕と人脈をつくる意味がないのである。
つまり、コミュニケーションすべき理由がない。
僕は自身を高めなければ、この人たちとはつながれないし、この人たちの背中に追い付けない。
そう思った。
すべきことはコミュニケーションではなく、コンテンツだと気付いたのである。
人脈の話は“有名になりたい”という話に近い。
“有名になりたい”というのは、より多くの人に“自分を知る”というコミュニケーションをとってほしいということ。
そこで、「伝えるべきあなたは一体どんなあなたですか?」というコンテンツの有無が問われる。
その問いに耐えられる答えを持ち合わせているなら、有名になることに力を注ぐべきだろう。
コミュニケーションに焦点を当てているが、コンテンツに課題がある。
そういった例は枚挙に暇がない。
ただ、コンテンツとコミュニケーションは厳密に区分けできるものでもないし、
常にそれを明確に分けるべきでもない。
例えば、コミュニケーション自体がコンテンツになる場合がそうである。
広告代理店やPR会社のコミュニケーションビジネス、
会員同士のコミュニケーションが価値になるソーシャル・ネットワークなどがそうだと言える。
と、コンテンツ×コミュニケーションについて書いてきたが、
実はこれにコンテクストが加わると僕は思う。
コンテクストとは、文脈、背景、意図、暗黙知といったものだ。
続々と登場する新たなWEBサービスはコミュニケーションを主軸にしたものが多い。
そんな環境変化のなかで、コミュニケーションではなく、コンテンツを創り出す力や経験、
コンテクストを読み取る力の重要性が高まっていくのではないだろうか。
そんな気がしている今日この頃。
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