2011/12/23

君は薩摩剣士を知っているか【2012/3/30更新】

■追記
この記事は去年12月23日に書いたのだが、それから3ヶ月。
薩摩剣士隼人の人気は過熱し続け、その勢いは加速し続けている。
そして、一話当たりの時間が長くなっている!!!!
(2012年3月30日)
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今、鹿児島では「薩摩剣士隼人」がアツい。

薩摩剣士隼人というご当地ヒーローなのだが、今年の秋から特撮(?)として放映されている。
名前は聞いていたが実際に見たことはなかった(僕の家にはテレビがない)

ちょっとあるキッカケで、公式にアップされたYou tube上の動画を見た。
衝撃だった。

カクカクした戦隊的なフォルムの薩摩剣士隼人と、敵対(?)するぼっけもんのゆるさ。
このような異なる価値観を同じ画面に混ぜ込んでいいのだろうか?
2Dと3Dを混ぜるような感じ。いや、なんかトーンが違う。

ぜひ見てほしい。特に、鹿児島以外の方に。

なんかもう衝撃なのだ。
引き続き、動画がアップされ次第、僕はアーカイブとしてまとめていきたい。

各話10〜15分です。
どうぞ。

第一話「だいやめをすっど!」


第二話「黒豚のイッダマシイ!」


第三話「アマンでクロス!」


第四話「すっぱいうんまか!」


第五話「ガラッパがRAPPER!」


第六話「ラーメンたもっど!」


第七話「ちゃいっぺくいやい!」


第八話「もぜしがうとちょっ! 」


第九話「かんさあはUMA!」


第十話「カゼノコトノハ」

2011/12/22

Think たこやき大学

たこやき大学 ソーシャルネットワーク科というイベントに参加してきた。
2時間のセミナーに参加費5,000円。
「え?それなんか怪しくない?」と思うのが、普通の反応だと思う。

僕も最後の最後まで「5,000円、高いなぁ」と思い、迷っていたのだけど、
「年に1回だし、ま、いっか」と思い、ドタンバ参加してきたというわけです。

結論から言うと、5,000円の価値はあった。

1.考えていたコミュニティのことが整理できた
→レイヤーで見る多層社会らへん

2.規模感の手がかりがあった。
→規模感と想像力の図示がよかった

3.思考の材料をもらい、脳のリフレッシュになった
→最近、視野が狭くなりがちで、新たな視点をもらえた


以下、思ったことを箇条書きで書いてみる。

・評価経済社会へのシフト
お金をもっていることの価値が相対的に小さくなってきた。
根底にある考え方は「多くあるものを使い、足りないものを節約する」が美徳という感覚。
今、溢れているのは「情報」、情報をどう使いこなし、「信頼」を貯めることができるか。
その信頼を得ることを評価と呼んでいるように感じた。

・ページランクを人に置き換える ヒューマンランク的発想
Googleが定めているページランクの概念は、評価の高いページからリンクされていることが高評価につながるという仕組みである。つまり、これは人にも置き換えられる。
素晴らしい人は素晴らしい人を知っている、という考え。
ただ、これは今までにも存在した概念というか、そうなっている。
ソーシャルネットワークはそれをオンライン上に可視化した。
つながりを明確に、透明にした。
例えば、ツイッター上のやり取りは、閉じられたメールと違い、開かれたオープンなコミュニケーション。誰もが目撃することが可能。


・それらを統合した社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)という概念
人の関係性が変容したり、価値観が変化していく中で、重要な資本は
貨幣から信頼や人間関係といった社会(コミュニティ的な意味)を構築する要素に変わっていきつつある、という話。
もちろん、貨幣が要らないという話ではない。
実は、ソーシャル・キャピタルは田舎の方が多いとされており、簡単に言うと
「田舎は近所のじっちゃんばあちゃんが米たら野菜やらくれるので、お金を使わなくても
そこそこ生きていけるってこと」に近いと思っている。

・ほんで、どうする?って話。
このイベント自体、使っている言葉は基本的に抽象的な言葉が多く、
ところどころオモシロ具体例が出て来て、皆さんついてきてくださいね!という感じ。
僕はめちゃおもろかったけど、背景情報を共有できていないと多分ついてこれない。
話の内容がつながっているので、躓いてしまうと落ちこぼれてしまう。
たこ大は意外と厳しい。

フォロワーが2万にいても、価値はないわけですよ。その数字自体には。
誰とどんな関係にあるか、いわゆるエンゲージメントがソーシャルの鍵。


僕としては、
・やっぱオモロイかどうかがすごく大事で、常に「これはおもろいか?」の視点を持つべき
・多層化しているレイヤーで自分のポジションを理解し、異種のつながりを創り、価値につなげられるか
・規模感を掴む想像力を持つ・磨く・試す
・もうちょっと「ツッコまれる」
・ブログに自分の蓄積をつくり、分身としてウェブに常駐させる
みたいなとこが結論かなー。

でも、やっぱり良かったのは知的刺激で、あの後
本屋に行き、二冊買ってしまった。

だから、僕らはこの働き方を選んだ 東京R不動産のフリーエージェント・スタイル
グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

なんかまだ漏れていることがいくつかあるような気がするんですが、
思い出したらまた書こう。

気になる人はアーカイブをどうぞ。
500円と有料ですが、それぐらいの価値はあるはずです。

2011/12/18

ボランティアの映画を見て、思い出したこと

「マジでガチなボランティア」という映画を見た。
簡単に言うと、ギャル男がカンボジアに小学校と医療所を立てるボランティアの話である。

大学生ならば、刺激を受けたかもしれない。
だが、今の自分にはあまり刺激はなかった。正直なところ。

ただ、見ていて、その学生団体という組織の運営の難しさや葛藤には非常に共感した。
ちなみに僕はイベントサークルが嫌いである。
なんとなく途上国支援も嫌いである。

でも、代表者の葛藤はよくわかった。
というか、自分の体験を重ね合わせて見ているから、
正確に言うと、映画の主人公の葛藤を理解している訳ではなく、
学生時代、自分が代表をしていた頃を思い出しただけなのかもしれない。

金銭的な対価のない、ボランティア組織はモチベーションをうまくマネジメントしないといけない。
メンバーがどんな人で、何を求めてこの組織にいて、どうなりたいのか。
代表というリーダーはメンバーに対する深い理解が必要となる。
金銭的な対価の発生する仕事や会社でも、それは同じなのだけど、
お金という尺度、インセンティブの存在は大きい。

学生時代、ビジネスプランや政策を考えて、フォーラムという形でイベントをしていた。
わずか500円の参加費を取るかどうかで議論した。
冷静に考えると、そんなに議論することではないのだが、
その議論に至る背景があったし、そこで意見対立することは組織としての活性化になったと思っている。
少なくとも、「代表がトップダウンで決める組織ではない」ということは周囲も理解してくれていたと思う。
そして、あの意見の奥にある価値観やモノの見方をぶつけあったことは無駄ではなかった。


思い出した。
社会人の先輩が言っていたこと。
「リーダーには、孤高という名の孤独がある」

僕はそのとき、高みにいけたかどうかわからないけど、
周りには理解できない苦しさや孤独はあった。

リーダーとして、それを乗り越えることが成長につながるのかもしれない。
組織のリーダーではなくても、自分が自分自身のリーダーであるという考えもある。
名著「リーダーシップの旅」には、リーダーシップの第一歩は「Lead the self」だと書いてある。

僕はこの言葉を時々思い出す。
今の自分の行動は誰によって導かれているのだろう?
自分は本当に自分で考え、目的を達成するために動いているのだろうか?
考えているのだろうか?と。

小学校をたてることが偉いことだろうか?
行動したことが偉いのだろうか?
または、ボランティアをやれば良いのだろうか?

違う。
大事なのは、自分が思ったこと・考えたこと・疑問に思ったことを
形にしたということではないだろうか。

ある教育の考え方に、コンストラクショニズムというものがある。
人は何かを創る時に学ぶというものである。
ものを創って、そのものに意味付けをする。
デザイン思考における、プロトタイピングも同じ考えだという。

実は、考えるよりも創った方が学べるのである。
状況によっては、行動も一緒かもしれない。

本当に良いことかどうか、やりたいことかどうか、
まずはやってみる。
その後で、方向転換するなり、改善するなり、やめるなりする。
ただ、おっさんにもなってそういうことをしてたら、怒られるどころではすまない。
なので、ある種若いうちの特権のような気がする。


自分の数年前を振り返って、
なんか青臭かったなーとか、
無駄に尖ってたなーとか、
思ったと同時に、
「今の俺は、ちゃんとやれてんのか?」
と昔の自分に聞かれたような時間でした。

上映された皆様、お疲れさまでした。

2011/12/11

所属するコミュニティの性質

大学の先生と新入生向けの授業について打ち合わせをしていて、
「学生がサークルやバイトに没頭する前に、
こちら側(学業や大学の活動)に引き込みたいですね」という話になった。

何かに取り組んだり、時間を注いだり、
それが遊びでも学びでも趣味でもいいのだけど
所属するコミュニティの性質がその人に大きく影響を与える。

その人自身がコミュニティを構成している一部でありながら、
自分の合理性や思考よりも集団という無名の思考や性格によって、物事が決まり進んでいく。

対比的に考えると、いわゆる組織には、役割や役職があり、
指令系統があり、ガバナンス(統治)が機能する。
群れのボスがいて、中ボスがいて、下っ端がいるという構図。
実際はどうかとして、ツリー状の組織図がそういうイメージであり、具体化したものであるといえる。
コミュニティはツリーでは整理しずらいし、サークル状になると考えられる。

「サークル活動のサークルはこういう意味合いから来てるのか!」
と思って調べたら、「友達の輪」から来ている説が有力だとのこと。脱線しました、失礼。

社会学的には、特定の目的を持った集団をトライブ(族)と呼ぶ。
パンクなどの若者が音楽以外にも共通性を持つことを
イギリスの学者が発見し、トライブと名付けたとのこと。
コミュニティの志向性が似ている場合は、トライブと定義した方が的確かもしれない。

言葉の定義はさておき、集団の性質が似ている場合はその活動に没頭できる状態だと考えられる。
しかし、性質が似ていない場合はコミュニティの質がおかしくなっていく。
例えば、大会優勝を目指すテニスサークル、
楽しむことが目的のテニスサークル、レクレーションの一つとしてテニスをするサークル。
全て、テニスサークルと言えるが、実態や性質は異なる。

どのタイプもあっていいのだが、そのサークル(コミュニティ)の性質と違う人が
入ってきた時にどうなるかが非常に問題。
部長が新人を厳しく指導し、優勝を目指すように諭すのか?
うちは遊びだから、本気なら違うサークルに行けと追い出すのか?

これはスポーツだから、する“こと”や目的が明確だ。
ただ、ゼミや友人関係などはもっとふわふわしたものになってくる。
“こと”や“目的”といったコンテンツよりも、そこにいる“人”(とのコミュニケーション)が
そのコミュニティの性質を作っていく場合が多い。

挑戦する人の集まりにいれば、挑戦のハードルは下がる。
堕落した人の集まりにいれば、堕落のハードルが下がる。

コミュニティから出ていくという選択肢がある。
それが出来れば、一義的には良い。
しかし、一方で自身が変わらなければコミュニティは変わらないことも事実だろう。

最近面白くないんだよなーという人は、面白くないコミュニティにいるのである。
「面白くない人が集まってこないんですよね、私のまわり」
「私は面白くない人たちと付き合っているんです」
と言っているようなものである。

ただ、「あなたは面白くしようとしていますか?」という主体の有無を問うべきだと思う。
所属するコミュニティの性質が自身に与える影響が大きい。
逆に、コミュニティを形づくる一要素としての自分がコミュニティに与える影響もまた大きいと言えるだろう。

リアルのつながりをたどったコミュニティはサークル的であり、コミュニケーションが性質を作っていくが、バーチャル(WEB)のつながりを辿ったコミュニティはトライブ的であり、コンテンツが性質を作っていくパターンが多いと思う。
このコミュニティをコンテンツ×コミュニケーションで考えるのは、勝手な僕の理論なんだけども、
何をする集まりなのか(コンテンツ)と、どんな関わりなのか(コミュニケーション)がコミュニティの要素であると思う。
あと付け加えるとすると、どんな背景を持っているか(コンテクスト)だろうか。

相互に良い影響が与えていくコミュニティをどう構築していくか。
主体的な学び、学習・成長の加速にとって、とても大事なことではないかと思う日々です。

ランサー