イチゴ狩りへの疑問
どうも不思議に思うことがあります。イチゴ狩りになぜお金を払うのか。
農家の視点で考えると、イチゴを収穫することは作業の一つです。
一生懸命に育てたイチゴですから、ただの作業とはひと味もふた味も違うかもしれません。
しかし、大規模となれば、その作業も簡単ではないでしょう。
この作業を他の人がやってくれて、なおかつお金を払ってくれるなんて言われると不思議に思いませんか。
話をイチゴ狩りのお客さんの視点にずらしてみましょう。
イチゴ狩り。なんだか楽しそうです。
僕自身、小さな頃に何かを狩った記憶があるのですが、何狩りだったのか思い出せません・・・
でも、イチゴ狩り、リンゴ狩り、ぶどう狩り、どれも楽しそうです。
(行く機会はないけど)
さて、農家視点からすると一つの作業である収穫作業をなぜ楽しいと感じるのでしょうか。
あえて小難しく言うと、「作業を体験に昇華させている」のだと思います。
ほんと無駄に小難しい感じです。
作業と見なしているものを別の視点から「楽しいもの」として定義しているのです。
結果的にですが。
これは日常と非日常のスイッチでもあると思います。
普段、農家でイチゴ狩りをしている方が他の農地でイチゴ狩りをするとは思えません。
しかし、普段都会に住んで生活している人にとっては、完全に日常外の出来事です。
もちろん、非日常だからと言って、離島まで泳ぐ体験なんてしたくありません。
あくまで楽しい体験と思っているから、非日常であり、やってみたいと思うのでしょう。
変に深堀りして考えると、この「狩る」という体験自体が人間のDNAレベルで原体験なのかもと思ったりします。
はるか昔、ヒトという動物として野山の果実を摘み取っていた、
ということを遺伝子が記憶しているのかもしれません。ええ、適当です。
「狩る」→「食べる」と行動が連続しているし、
それを友達や恋人、家族など近しい人間で一緒に行う、という所にも意味を感じます。
特に親が子どもにさせたい経験は親自身が頭で考えている以上に、
遺伝的に無意識な思考が働いている可能性があります。
話はずれるけど、モンスターペアレンツみたいなものも本能の暴走だと思うんですよね。
理性が効かない。またはわざと理性を効かなくさせている。
体験を再定義するという意識
イチゴ狩りの話はこれくらいにして、本論へ。視点を変える事によって、価値を生み出すことができる。
もっと言えば、価値を理解できる人が価値の意味付けを行う。
これが気付いたことです。
あるブログを読んでいて、イチゴ狩りにいくことを農家体験だと書いていました。
これが妙に引っかかったのです。
「確かに農家体験だ。てか、農作業やん。あれ?なんで作業にお金払うの?」と。
実は似たような現象はいくつかあります。
例えば、ゴミ拾いをするボランティア、放課後の小学校で生徒を教える大学生、遠くから雪かきにくる若者。
この方たちは、なぜ同じような内容のアルバイトではなく、上記の経験を選択するのか?
これは他の人から見れば、「作業」として認識させるものを「体験」として認識し、
それを積み重ねているからでしょう。
考え方としては「労働の対価」として金銭ではなく経験を得ているのだと思います。
イチゴ狩りにおいては、その体験にお金を払っている。
その体験を買っているのだ。(もちろんイチゴ代込みだけど)
一昔話題にのぼった雪かきボランティアは、ネット上の一部でバカにされていた。
しかし、そのボランティアも当事者にとっては意味があることなのだろう。
ある人にとってはただの作業が、ある人にとってはお金を出したい体験となる。
もちろん単純化しているが、これは非常に面白い現象である。
価値観は画一化なんて言われているが、そんなことはない。
既に価値観は多様化しているし、その対比の中で体験が商売になっている。
(どちらかというとボランタリー経済だと思うけども)
だから、僕は「自分が意味のないと思う事」が「世の中にとって意味がないこと」だと決して思わない。
セレンディピティという言葉がある。探しているものとは別の価値を見つける力、といった意味を持つ。
ベンチャー企業がサービスや商品の反響を見て、方向転換するピボットという言葉がある。
これらは本質的に同じことを指していると思う。
多様化した時代は、早急なジャッジではなく、一度置いてみることが大事なのかもしれない。
色んな人がそれをのぞきこみ、色んな使い方や色んなことを思う。
そこに思いもしなかった新しい何かが眠っているかもしれない。
うん、イチゴが食べたくなってきた。
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