2012/09/23

イチゴ狩りにお金を払うのはなぜか What is the reason for paying money to picking a strawberry?

イチゴ狩りへの疑問

どうも不思議に思うことがあります。
イチゴ狩りになぜお金を払うのか。
農家の視点で考えると、イチゴを収穫することは作業の一つです。
一生懸命に育てたイチゴですから、ただの作業とはひと味もふた味も違うかもしれません。
しかし、大規模となれば、その作業も簡単ではないでしょう。
この作業を他の人がやってくれて、なおかつお金を払ってくれるなんて言われると不思議に思いませんか。

話をイチゴ狩りのお客さんの視点にずらしてみましょう。
イチゴ狩り。なんだか楽しそうです。
僕自身、小さな頃に何かを狩った記憶があるのですが、何狩りだったのか思い出せません・・・

でも、イチゴ狩り、リンゴ狩り、ぶどう狩り、どれも楽しそうです。
(行く機会はないけど)
さて、農家視点からすると一つの作業である収穫作業をなぜ楽しいと感じるのでしょうか。

あえて小難しく言うと、「作業を体験に昇華させている」のだと思います。
ほんと無駄に小難しい感じです。

作業と見なしているものを別の視点から「楽しいもの」として定義しているのです。
結果的にですが。

これは日常と非日常のスイッチでもあると思います。
普段、農家でイチゴ狩りをしている方が他の農地でイチゴ狩りをするとは思えません。
しかし、普段都会に住んで生活している人にとっては、完全に日常外の出来事です。
もちろん、非日常だからと言って、離島まで泳ぐ体験なんてしたくありません。
あくまで楽しい体験と思っているから、非日常であり、やってみたいと思うのでしょう。

変に深堀りして考えると、この「狩る」という体験自体が人間のDNAレベルで原体験なのかもと思ったりします。
はるか昔、ヒトという動物として野山の果実を摘み取っていた、
ということを遺伝子が記憶しているのかもしれません。ええ、適当です。

「狩る」→「食べる」と行動が連続しているし、
それを友達や恋人、家族など近しい人間で一緒に行う、という所にも意味を感じます。
特に親が子どもにさせたい経験は親自身が頭で考えている以上に、
遺伝的に無意識な思考が働いている可能性があります。
話はずれるけど、モンスターペアレンツみたいなものも本能の暴走だと思うんですよね。
理性が効かない。またはわざと理性を効かなくさせている。

体験を再定義するという意識

イチゴ狩りの話はこれくらいにして、本論へ。
視点を変える事によって、価値を生み出すことができる。
もっと言えば、価値を理解できる人が価値の意味付けを行う。

これが気付いたことです。
あるブログを読んでいて、イチゴ狩りにいくことを農家体験だと書いていました。
これが妙に引っかかったのです。
「確かに農家体験だ。てか、農作業やん。あれ?なんで作業にお金払うの?」と。

実は似たような現象はいくつかあります。
例えば、ゴミ拾いをするボランティア、放課後の小学校で生徒を教える大学生、遠くから雪かきにくる若者。
この方たちは、なぜ同じような内容のアルバイトではなく、上記の経験を選択するのか?

これは他の人から見れば、「作業」として認識させるものを「体験」として認識し、
それを積み重ねているからでしょう。
考え方としては「労働の対価」として金銭ではなく経験を得ているのだと思います。

イチゴ狩りにおいては、その体験にお金を払っている。
その体験を買っているのだ。(もちろんイチゴ代込みだけど)

一昔話題にのぼった雪かきボランティアは、ネット上の一部でバカにされていた。
しかし、そのボランティアも当事者にとっては意味があることなのだろう。

ある人にとってはただの作業が、ある人にとってはお金を出したい体験となる。
もちろん単純化しているが、これは非常に面白い現象である。
価値観は画一化なんて言われているが、そんなことはない。
既に価値観は多様化しているし、その対比の中で体験が商売になっている。
(どちらかというとボランタリー経済だと思うけども)

だから、僕は「自分が意味のないと思う事」が「世の中にとって意味がないこと」だと決して思わない。
セレンディピティという言葉がある。探しているものとは別の価値を見つける力、といった意味を持つ。
ベンチャー企業がサービスや商品の反響を見て、方向転換するピボットという言葉がある。
これらは本質的に同じことを指していると思う。


多様化した時代は、早急なジャッジではなく、一度置いてみることが大事なのかもしれない。
色んな人がそれをのぞきこみ、色んな使い方や色んなことを思う。
そこに思いもしなかった新しい何かが眠っているかもしれない。

うん、イチゴが食べたくなってきた。

2012/09/21

未来の学校って何だろう? The future school will be what?

ツイッターで思いつきを垂れ流していると、
このままでは脳が腐ると思い始めてきたので、文章を書こうと思い、久しぶりのブログへ。
書こうと思う事はいくつかあるのだけど、取りかかりまでに時間がかかってしまう。
そんなに難しく考えず、気軽にやろうと思い直したのです。

最近、新しく人と知り合う機会が増えてきました。
それもそのはず、住む場所が変わったのだから当たり前ですね。
ソーシャルメディアでつながっていない方もいるので書いておくと、
6月末に実家の宗像市に引っ越し、8月中旬に福岡市に引っ越しました。
なので、今の生活パターンになってから、1ヶ月くらいです。


で、タイトルの件へ。

未来の学校って何だろうかと最近ぼんやりと考えています。
そのきっかけとなったのは、ある体験と1冊の雑誌でした。


他県から来た小学生とキャンプをした時に、宗像市のことをあれこれと聞かれた。 その子は宗像の名産や観光スポットについて、僕よりも詳しかった。  僕だって地元だし、24年間いた土地なんだけど。彼はGoogleで調べたと言っていた。 自我を持って話せる小学校高学年に、本当のデジタルネイティブを感じた。そして、この子たちに公教育は対応しきれていないのではないかと疑問を持った。(facebookへの投稿より引用)

この小学生とのやり取り自体は、
「ああ、やっぱ最近の子どもってGoogleで調べるとか当たり前なんだなー」と思った程度でした。
しかし、先日Wiredという雑誌の「未来の学校」という特集を読んでいて、この体験と強く結びつきました。



この雑誌はぜひ読んでほしい一冊で、
特に教育や学習に携わる人、興味がある人は必読だと思っています(勝手に笑)
MITメディアラボの話を中心に、シンガポールのフューチャースクールなどの記事があります。
海外の教育へのICT活用はもうこんなに進んでいるのかと驚きました。
先進事例を読みながら、アタマに電撃のような刺激が走るとともに、
日本の教育が変わっていかない現状に恐怖に近い感情を覚えました。

教育へのICT活用は色んなところで叫ばれています。
イメージしやすいのは、デジタル教科書でしょうか。
学校で本の教科書を使うのではなく、生徒1人ひとりがタブレットを持って、
そのタブレットにいくつものアプリケーションが入っているような感じです。
デジタル教科書を始めとするICT教育には、賛否両論があります。
ただ、大局的に見ると、遅かれ早いかれデジタル教育は進んでいくと思います。
今教えている内容をICTというツールで教えるICT活用、
デジタル社会に対応するために必要な知識やリテラシーを学ぶデジタル教育、
この2つが主軸となるでしょう。

一方で、デジタルに浸りすぎると、弊害があるのでは?というのが
反対派の論です。もちろんメリットしかないという施策などはなく、
いかにしてデメリットをつぶすかという話だと思うのですが、そうはいかず。
デジタル化が進むシリコンバレーでは、以下のようなことが行われているそうです。


中学校のリポートはワード、プレゼンはパワーポイント、データの分析はエクセルが使われる。パソコンに内蔵されているソフトは、あくまで手段の一つにすぎない。宿題や課題に関しても、「コピー&ペースト」に対しては厳罰なペナルティーが待っているのは当然であるが、スカイプで友達に相談したり、グーグルで検索したりと、パソコンの利用は“教えられる”ものではなく、自然体で身に付くような仕組みになっている。

子どもたちは、ITをいかに使うかという道具の視点を学ぶそうです。
そして、デジタルではないアナログ視点の教育もまた面白いのです。

子供たちが通っている学校では、学校の裏庭に小さな農場(The Farm)があり、そこで動物を飼育して、野菜を栽培している。
 生徒たちはこの農場の運営を手伝い、そこでの収穫物を、毎週木曜日の放課後に開かれるマーケットで売り、売り上げを学校の活動に還元する仕組みになっている。裏庭の農場で小さな経済を学んでいるのだ。

1つのプログラムだけで終わらずに、全体のカリキュラムとして
子どもたちに必要なことを学んでもらうようになっているのでしょう。
この記事であったり、wiredを読んだりして、思ったことをその時こう書いてました。

そして、2つのことを思った。「デジタルではないアナログから学べること」を体験してもらう、そして、「デジタルをもっと使いこなし創造すること」に挑戦してもらう。大人は何かを教える立場から、子どもが何かを生み出す土台づくりへ移らなければならないのではないか。(facebookへの投稿より引用)

「“教わる”から“学ぶ”へ」というサブタイトルがあった。
世の中のデジタルへの変化をふまえ、この一言をしっかり考えてみたい。
それが「未来の学校」につながっているはずだと思うので。



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