2010/09/26

想像の外

自分が考えたり、想像したりする領域がある。
「その領域の外にあるモノや考え」を提示されたときに、おおよそ3つのパターンがある。
思考停止になるか、噛み砕いて自分の領域に持ち込むか、自分の領域を拡大しそれを受け入れるか。
一つ目は論外として、あと二つは自分の土台がどのレベルにあるかによって変わるような気がする。

土台とは考え方、考える範囲というフレームみたいなもので、
そのフレームを常に変化するものとしながら、仮定として機能させる。

自分の領域、つまりそのフレームがどれだけ上書保存され、着実な進化を遂げているか。
そして、それが通用するクオリティがどうか。

噛み砕いて持ち込むのは、まだ先の話のように感じる。
自分の領域を拡大し続け、自分の軸足をどこに置くかを決める。

まだそれから変わることもあるだろう。しかし、ここだ!と決めるべき点があるはず。

逆に言えば、それすらも決められない己の未熟さに腹が立つ。

焦らず、小さくまとまらず、それでも素早く、大地を踏みしめねば。
相反するようで反しない思考と行動を兼ねること。

これが難しい、悔しい。

2010/09/12

ネーミングライツは商店街を救うのか?

木下斉さんのブログにユーグレナモールについての記述があった。
日本最南端の商店街振興組合・ユーグレナモール


商店街のネーミングライツに、注目のベンチャーが名乗りをあげるという面白いケース。
商店街がネーミングライツを販売したのは初だとのこと。
これらをヒントに少し考えてみたい。

地方では、どの商店街も廃れている。
大型ショッピングセンターとの対立やら、ドーナツ化やら、原因や対策が色々といわれている。

そもそも商店主もいない、お客もいない。
そんな場所を存続させる意味がどこにあるのか?という問いをたてることもできる。

もちろん、各商店街が努力することは必要だし、店主の生活があるので当然のことであろう。
しかし、公的資金を投入されているという事実がある。

一店舗でやっている店は支援される?
商店街だけ?大資本が支援されない?
疑問を生む政策であることは間違いない。

自助努力が求められる商店街の一つの手法がこのネーミングライツかもしれない。
ネーミングライツとは命名権のことで、
施設に対する命名権の販売は90年代後半から米で始まったとのこと。
日本では、03年3月に東京スタジアムと味の素との間で初の契約が結ばれ、
スタジアムの名称が味の素スタジアムに変わった。契約5年間で、金額12億円(総額)。
それ以外の事例はこちら。
【参考】:命名権 -wikipedia 事例


ネーミングライツの価値は、その施設名が記述されるすべてのメディアに名前が載ることである。
公的機関やイベントのチラシ、看板の表記、人々の会話にすら入りこむ。
つまり、あらゆる場所で名前を呼んでもらい、認知度を上げるのがネーミングライツというPR手法。
スポーツ施設の場合、スポンサー企業の福利厚生やテナント納入機会などのメリットがある。

ユーグレナ社の場合、石垣島で生産される微細藻類ユーグレナを利用した機能性食品やサプリメントの開発・販売が事業であるため、地域性との相性や地域貢献の要素もあったといえる。
契約は2010年3月14日から2年間。契約金額は非公表である。

石垣市企画部によると、「実情を聞くと、組合員の生活が成り立たなくなり、モール街の存在自体も危うくなると考えて同意した」とのこと。

少し整理すると、
商店街→ネーミングライツによる収益
スポンサー企業→地域における認知度の圧倒的向上
となるわけである。
お互いにメリットを享受できている。

しかし、上記にあげたように、「商店主がいない・お客がいない」のが商店街の問題である。
そこを深く考えた上で、解決策を打たねばならない。
おそらく鶏・卵の関係であり、問題は構造的な部分にありそうだ。
よく聞く話では、賃料を下げずに新規出店を拒む地主がいたりする。
まったく阿呆な話だと思うが、本当にあるので馬鹿にできない。

そこで、思いついた案としては、
1.スポーツ施設のように、商店街を施設ととらえて、テナントのコーディネートをスポンサーが行う。
2.商店街のなかにインキュベーション施設やテストマーケティング施設をつくる。
3.フリースペースを作って、通行量を増やす、商店街の滞留時間を増やす。
などがあるかなと。
ベンチャーがネーミングライツを取れるなら、2はありえるかもしれない。

ぜひ石垣島に行って、ユーグレナモールを見てまわりたいと思う。
これが“本当”に成功事例となれば、全国の商店街の名前が次々に変わっていくかもしれない。


【参考情報】
■ユーグレナモール関連
ユーグレナモール誕生記念式典(ユーグレナPR日記)
ユーグレナモール誕生 県内初の命名権譲渡
ユーグレナモール(ユーグレナPR日記)
石垣島・ユーグレナモールの日記

■その他
株式会社ユーグレナ
中小企業庁 がんばる商店街77選
中小企業庁 新・がんばる商店街77選
日本にネーミングライツを浸透させるために(PDF)

2010/09/10

古き言葉を掘り起こしてみる

この前、Gmaiを整理していたら、自分の携帯から送られていたメモをいくつか発見した。
2~4年前の内容。
その中で、少し引っかかった文章を載せてみる。
中学校の卒業文集を読むようで少し気恥ずかしいが、そこにある言葉は真っ直ぐで自身に気付きをくれた。ような気がする。



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描く夢のサイズ (08/11/25)

自分だけの夢を自分だけで描くこと。
仮にそれを達成したとしても、幸せを感じる自分だけかもしれない。

自分だけでは叶えられない大きな夢を描くこと。
それを達成するには、自分だけでは足りない。
誰かの助けが必要となる。
誰かと協力しなければならなくなる。

難しいこと、大きなこと、それに挑むとき、ビジョンを描くべきなのだろう。
ビジョン、それは夢を達成した後の光景を描くこと。

『自分の中』や『みんなの中』で何かが変わり、昨日まで無理だと思えたことが今日は出来ると信じられる。

そんなシーンをクリアに描けるか。
そして、それを伝えられるか。

しかし、最初は誰も助けてくれずにたった一人だとしても、
夢に向かって挑戦することが重要だと思う。

そうしなければ、誰も動き出さないから。


物事は複雑な関係にあり、原因は一つではない。
構造や関係性が原因だってこともある。

そして、動いてみないと原因は確認できない。

大きな夢はヒトを動かす。
でも、ホントは夢じゃなく、夢を描いた人が動かしてる。


僕は自分だけの小さな夢を描いてた。その挑戦を限界への挑戦のように思ってた。
その思い込みは簡単に崩れた。
自分の手の届く範囲で、できること・できそうなことだけをする。
そういうつまらないことをしたくない。
もっとワクワクするような面白いこと。
自分の手から先の未知の領域。
そこに挑まないと、僕に変化は訪れない。


そういうことをポツポツ考えた。

Make the world better place


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うむ。
その真っ直ぐさを今の自分が直視できるか?

挑戦しているのか?
小さくまとまってないか?

そんな自分への問いを思い出すきっかけがメールボックスの中にあった。

2010/09/01

傍を楽にするということ、働く

ある文章が刺さった。

目の前の机も、その上のコップも、耳にとどく音楽も。ペンも紙も、すべて誰かがつくったものだ。街路樹のような自然物でさえ、人の仕事の結果としてそこに生えている。
教育機関卒業後の私たちは、生きている時間の大半をなんらかの形で仕事に費やし、その累積が社会を形成している。私たちは、数え切れない他人の「仕事」に囲まれて日々生きているわけだが、ではそれらの仕事は私たちになにを与え、伝えているのだろう。

たとえば安売り家具屋の店頭に並ぶ、カラーボックスのような本棚。化粧板の仕上げは側面まで、裏面はベニア貼りの彼らは、「裏は見えないからいいでしょ?」というメッセージを、語るともなく語っている。建売住宅の扉は、開け閉めのたびに薄い音を立てながら、それをつくった人たちの「こんなもんでいいでしょ?」という腹のうちを伝える。

やたらに広告頁の多い雑誌。10分程度の内容を一時間枠に水増ししたテレビ番組、などなど。様々な仕事が「こんなもんでいいでしょ?」という、人を軽くあつかったメッセージを体現している。それらは隠しようのないものだし、デザインはそれを隠すために拓かれた技術でもない。

また一方に、丁寧に時間と心がかけられた仕事がある。素材の旨味を引き出すべく、手間を惜しむことなくつくられる料理。表面的には見えない細部にまで手の入った工芸品。一流のスポーツ選手による素晴らしいプレイに、「こんなもんで」などという力の出し惜しみはない。このような仕事に触れる時、私たちは「いい仕事をするなあ」と、嬉しそうな表情をする。なぜ嬉しいのだろう。

人間は「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを、つねに探し求めている生き物だと思う。そしてそれが足りなくなると、どんどん元気がなくなり、時には精神のバランスを崩してしまう。
「こんなものでいい」と思いながらつくられたものは、それを手にする人の存在を否定する。とくに幼児期に、こうした棘(とげ)に囲まれて育つことは、人の成長にどんなダメージを与えるだろう。

大人でも同じだ。人々が自分の仕事をとおして、自分たち自身を傷つけ、目に見えないボディーブローを効かせ合うような悪循環が、長く重ねられている気がしてならない。

しかし、結果としての仕事に働き方の内実が含まれるのなら、「働き方」が変わることによって、世界が変わる可能性もあるのではないか。
この世界は一人一人の小さな「仕事」の累積なのだから、世界が変わる方法はどこか余所ではなく、じつは一人一人の手元にある。多くの人が「自分」を疎外して働いた結果、それを手にした人をも疎外する非人間的な社会が出来上がるわけだが、同じ構造で逆の成果を生み出すこともできる。
問題は、なぜ多くの人がそれをできないのか、ということになるが、まずはいくつかの働き方を尋ねるところからはじめてみたい。

自分の仕事をつくる 西村佳哲著 プロローグより

ランサー