2012/12/03

棚にストーリーがあり、店にコンセプトがあるKUBRICKというリアル本屋の在り方 The select shop of Books and Stories



リアル本屋と本について

KUBRICKが好きだ。

ネットで気軽に綺麗な本が素早く買えるようになったり

オンラインメディアでも読み応えのある文章が増えたり
電子書籍プラットフォームが立ち上がろうとしていたり
リアルな本屋は実際追いつめられているんじゃないかと感じてる。
九州中を放浪した時に、本屋が田舎にあまりにも少ないことにショックを受けた記憶もある。
それでも、いや、だからこそKUBRICKは存在感がある。


ぼくは本が好きだ。それ以上に本屋が好きだ。

しかし、図書館もかなり好きなので、
きっと本に囲まれた空間が好きなんだと思う。
小さな頃から、大量の図鑑を図書館で借りて親を困らせていた。
好奇心の赴くままに、知ることを好んだ。
好き勝手に読ませてくれた環境には感謝している。
これは割と大事なことで、小さな子どもが「ダメ」という言葉にビクビクしている様子を見ると、
この親は子どもの可能性に随分と強いブレーキをかけているなぁと思う。
好奇心はつくったり、できたりするものではなく、もとからある外部への関心欲が育った結果である。
それを奪うのは、ダメ、危ないという数文字の言葉である。
奪うのは簡単だが、取り戻すには時間がかかる。
言葉は難しい。


本に囲まれた空間を一つ抽象的にすると、“知らない情報に溢れている場所”と表現できる。

そう考えると、とてもエキサイティングに思えてくる。
僕は知らない情報を知ることが単純に楽しい。
本屋は、「僕が無知であること」を可視化してくれる。
君はまだこんなに知らないぞ、と。

これからインターネットはまだまだ進化するだろうし、
新しい技術も生まれていくだろう。
それでも、触れることができる情報媒体として本はまだ生き残っていると思う。
もちろん、本の役割はそれだけでない。
例えば、インテリアとしての本もあるだろう。
本棚を見れば、その人の興味関心が分かる。
これは家具以上にパーソナリティを表すインテリアだと思う。

話が本に行き過ぎてしまった。

本と情報について、考えていることは一杯あるので
それはいずれまとめたい。
先日「MEDIA MAKERS」を読み、とても良い刺激を受けたこともあって。




情報を、本を紡いでいく

KUBRICKは何が良いのか。

本というのは、章やコーナーという形式で情報が区切られている。
雑誌であれば、編集長のコラムがあったり、今号の特集があったり、
1ページ〜数ページで情報がまとまっている。
単行本であれば、章ごとに大きく内容が分かれており、章をつなげて
最終的に一つのメッセージになっている。
章やコーナーをサラダやメインデッシュとするならば、
本は一つのフルコースだと言える。

さて、このフルコースは本屋でどうやって並べているだろうか。
多くは、同じカテゴリーで並べられている。
マンガはマンガで並んでいるし、歴史の本は歴史の棚にある。
まぁ、普通に考えると、この分類が楽だし、当たり前な感じもする。
しかし、ユーザーはそう思っていない。

歴史を題材にしたマンガはどこに並べるのか?
歴史的名所を特集した旅行雑誌は温泉本の隣に置いていいのか?
記号的なカテゴライズは無機質な棚をつくっていく。

田舎の駅前の本屋には、週刊誌とマンガと教科書が置いてある。
それが売れるからである。
残念ながら、そこには好奇心に答えてくれる知恵は置いていないし、
その本屋でしかないコンセプトなど微塵もない。
商店として、商いをやっているのだ。
だから、生き物ではない本はただ無機質に並んでいるだけである。
その現実を考えていくと、あることが見えて来る。

KUBRICKの良さは、有機性と規模感である。
本や雑誌が適切な量、良いつながりで並んでおり、
それが店舗としてのコンセプトを感じさせてくれる。

「ここで買いたい」と思わせる何かがある。
それは本の並びにストーリーがあり、そのストーリーを追っていくと
欲しかった新しい本に出会える。
その体験が「ここに行きたい、ここに行けば」というリアル店舗の価値につながっている。
amazonのアルゴリズムだけではないレコメンドがそこにある。

福岡のけやき通りと箱崎にお店があります。
箱崎の方はカフェも併設されています。
行った事がない方はぜひ行ってみて、世界観を感じてみてください。
http://www.bookskubrick.jp/

2012/11/19

プレデザインの話 think about pre-Design

デザインに辿り着くまで

最近、デザインという言葉をよく使うようになってきた。
それに伴い、デザインという行為を考える機会も増えた。
僕はデザイナーではないのだけど、デザインされたものが好きだし、
デザインというものの可能性やデザインする際の考え方に興味がある。

原点をたどると、図画工作は小さな頃から得意だったし、
絵を見たり、写真を見たり、アートを見たり、

そういったことが無意識に好きだったのかもしれない。
しかし、それを専門に学ぼうとか、デザイナーになろうとか

微塵も考えていなかった。

大学生の頃、「コミュニケーションをデザインするための本」を読み、脳天に衝撃が走った。
デザインは有形だけでなく無形のものをも対象にすること、デザインとは課題解決であることを教えてもらった。
その頃、パワーポイントで資料をつくって発表することが多く、情報整理と情報表現についてよく考えていた。
考えていたのは、「何を言いたいのか」と「どう伝えるのか」という二つの問い。
先輩から「何が言いたいのかわからない」と詰められ、メッセージについて
悩んだり詰まったり修正したりしたのは、今となっては良い思い出である。
一方で、どう伝えるのかという手段は、「
言語と絵で構成するしかない」と当時は思っていた。
見やすいグラフをつくるだけでも、レイアウトや色、トーンなどに気をつける必要がある。
しかし、それに力を入れすぎて、“かっこいいだけ”の資料をつくったこともしばしば。
本末転倒ではあるが、おかげでパワポ作成はかなり速くなった。
その経験もあり、伝わるということについて意識するようになった。



2人の言葉

あるデザイナーの方から
「赤星さんはデザイナー的な考え方をしている」と言われたことがある。
論理的に考えたり、課題を解決するために何かを考えたり
することがデザイナーに近いということだった。
話を聞いていくと、デザインのプロセスは非常にロジカルであり、
一定の法則やパターンに則っていることがわかった。とても面白い。
またデザイナーをしている友人から「デザインする前に考えること」の話を聞いた事があり、
“プレ”(〜の前に)の大切さを語られた記憶が強く残っている。
この2つからプレデザイン、デザインする前に意識する事を思い出した。


何であれ課題を知らなければ、解決できない。
クライアントやユーザーを知らなければ、課題を理解できない。




課題解決としてのデザイン

デザインは課題解決の手法である。
デザインを頼むクライアントがいて、伝える対象となるユーザーがいる。
その二者間をつなぐのが、コミュニケーションという解決策。


しかし、改めて考えると、

(クライアントが)伝えたいことは(ユーザーが)知りたいこととイコールではない。
“伝えたいことが伝わるように”考えたとしても、必ずしも成果につながる訳でない。
そもそも依頼するクライアントの視点と利用するユーザーの視点は異なる。
両者のギャップを埋め、コミュニケーションをつなぐ翻訳者のような役割が求められる。

実際にクライアントとユーザーの属性が全く違う場合、同じ日本語を話していても使用言語が異なるだろう。
言葉に込められてた意味や使い方、時間感覚、環境、ほとんど全てが違うだろう。


だから、課題を掴むためによく知る必要がある。
そして、難しいのは言葉が必ずしも真実を表していないこと。
ユーザーは自身のニーズを完全に理解していないし、理解していたとしても正しく言語化できるわけでもない。

それはクライアントの方も同じだろう。
つまり、客観的な位置から客観視だけでなく、主体的な事実に迫っていかなければならない。

観察すべきは、行動であり、言葉と照らし合わせて、事実を把握していかなければならない。
出来事の水面下には、パターン、構造、メンタルモデルといった違うシステムが機能している。



デザイナー以外がデザインを知る必要性

デザインの対象となる領域が大きくなってきた。
というよりも、本来デザイナーは対象を絞っていなかったが、
その考え方や思想がデザイナー以外にも広がっているといった方が適切かもしれない。


例えば、ウェブサービス1つ取っても、デザイン面での進化が著しい。
聞いた話だが、バックエンドの負担が減った分、フロントエンド、

つまりユーザーインターフェースやユーザーエクスペリエンスに力を入れ始めた結果だそう。
デザイン思考も近年急激に広まり、ITによるコストダウンでプロトタイプの作成が容易になり始めた。


そして、最近3Dプリンター(スキャナー)に注目が集まっている。
Wiredのクリス・アンダーソンが出した「MAKERS」や

彼が3D RoboticsのCEOに専念するというニュースが記憶に新しい。
「デザイン」がビジネスパーソンの基礎スキルにカウントされるのは、遠くない未来かもしれない。




デザイナーがデザイン以外を知る必要性

どんな仕事でも、単純作業は代替可能で、付加価値が低くなっていく。
クライアントやディレクターから言われるままにデザインして、
それを修正して繰り返すだけでは成長しづらいだろうし、いつ他にとって替わられるかわからない。
デザイン実務だけでなく、なぜそういうデザインにすべきかを明確にしたり、背景を理解したりする必要がある。
それにアイデアについても、制作に寄った発想よりも、ユーザーの視点に立ったアイデアや他業界の知識や見方が役に立つかもしれない。
優れた和食は優れた洋食からも学べるだろう。

デザイナーは世界を広げ、自分を高める必要がある。
もちろん、デザイナー以外も。


デザインの効果

とはいえ、結局デザインって何だろう?
たどり着いた答えは、行動変容を促すという役割だった。


例えば、チラシであれば、それを見て買う/来店する。
プロダクトであれば、それを手に取る/使ってみる。
建物であれば、入ってみる/過ごす/使ってみる。


情報を提供しただけでは意味がなく、

その後受け手がどんな行動を起こすかまで設計する必要がある。
モノでも、それを使ってもらわないと意味がない。

買ってもらえれば売上という数値は上がるが、使ってもらわないとその後に続かない

意図した行動を起こしてもらうこと。
そのためには、使う仕組みや仕掛けも大事だが、気持ちを動かさないといけない。

デザインはそのスイッチだと思う。
という感じで、デザイン以前を考える今日この頃です。

2012/11/13

よろしい、ならばスタートアップウィークエンドだ Startup Weekend is awesome



結論:スタートアップウィークエンドは楽しい


先週末、Startup Weekend Fukuokaに参加した。
54時間でスタートアップを疑似体験するというもの。
アイデアピッチ→チームビルド→初期仮説作成→ユーザーインタビュー
→プロトタイプ開発&ビジネスモデル作成→プレゼン準備→プレゼン

という流れを54時間で。

来年も開催されると思うのですが、このイベントは下記のような方にオススメ。
  起業を考えている方
  とにかく開発したいプログラマー
  UIから資料作成までやりたいデザイナー などなど



どんな感じだったか

チームは5つ。
僕のチームは2名と最小人数だったが、割とちゃんとできた。
(オーガナイザーに少しデザインを手伝ってもらった)


基本的な考え方はリーンスタートアップであり、
仮説をもとに構築をすすめ、それを壊しては作りということをやっていく。
その中で、サービスのコンセプトやターゲット、主な機能が変わることがある。
これがピボットなんだな、とやりながら思った。


うちのチームが考えたサービスはCafeIn(カフェイン)。
カフェユーザーとカフェを新しい軸でつなぐサービスである。
①ユーザーの知りたい情報が手に入りにくい
②カフェはユーザーの情報を知らない
という二者の課題を解決するというもの。



ピボットという舵取り

最初はカフェに特化したSNSみたいなのをイメージしていたが、
2日目の朝にノマドワーカーをターゲットにした、
カフェをコワーキング利用できるサービスにピボットした。

しかし、3日目の朝に上記の最終版にピボットした。

なので、セカンド版でサービスを実装していたが、
プレゼンは最終版になっており、
プレゼンに一貫性がなかったことが反省点である。



正直ぼくはこのピボットという言葉をバカにしていたけど、
自分がバカだったんだなと気付いた。
(いや、過剰なカタカナ語ってね・・・この記事カタカナばっかだけど)

ピボットの一回目はサービスを具体化していく際に
誰にヒアリングするかという視点から生まれた。

「最初にこのサービスを使う人は誰だか」という問いかけ。


“そういえば、カフェで仕事したりするけど、カフェに申し訳ない感じするよね?”
という発想からコワーキング活用をする人にインタビューを行った。
この仮説はあたっていた。



答えは現場にある

しかし、このインタビューでもっと具体的なユーザーのニーズも拾えた。
「電源もあるし、Wi-Fiもあるけど、行ったら席がなかった」
「空調が寒すぎるところがある」
「静かなところがいいよね」
ここで、ユーザーがカフェを利用する理由が飲食だけではないことがわかった。



一方で、カフェにもいき、店長の方にインタビューをした。
そこで、集客から広告コスト、アイドルタイムやノマド活用など色んな話を聞いた。
ここでも予想しなかった声が拾えた。


「毎日来ている常連さんなんだけど、顔しかわからない」
カフェオーナーとカフェユーザーは情報が分断されている。


ここがビジネスモデルをつくる上で強いファクトになった。
カフェに課金するのだが、オーナーは広告コストとして月額を払うが、
リターンは集客とユーザー情報の2つである。


つまり、サービス自体はマッチングサービスや情報共有サービスだが、
カフェにとってはマーケティング支援サービスなのである。
と、ここぐらいでタイムアウト。



実際に顧客獲得をどうやっていくかというところは詰め切れなかった。
せっかくインタビューしたカフェの声もうまく反映させきれなかったし。



ちなみにサービスのキャッチコピーは
「カフェに新しいインターフェースを」
であったが、プレゼン時間が足りなかった。



オーガナイザーやジャッジに外国人がいたのも良かった。
久しぶりに英語のやり取り(単語とジェスチャー)をして、
英語の必要性を感じられたし。



結局、考えたサービスの説明&反省みたいになってしまったけど、
とても面白く充実したイベントでした!


優秀なプログラマーのHさん、助っ人で手伝ってくれたMさん、

参加者・オーガナイザーの皆様ありがとうございました!



2012/09/23

イチゴ狩りにお金を払うのはなぜか What is the reason for paying money to picking a strawberry?

イチゴ狩りへの疑問

どうも不思議に思うことがあります。
イチゴ狩りになぜお金を払うのか。
農家の視点で考えると、イチゴを収穫することは作業の一つです。
一生懸命に育てたイチゴですから、ただの作業とはひと味もふた味も違うかもしれません。
しかし、大規模となれば、その作業も簡単ではないでしょう。
この作業を他の人がやってくれて、なおかつお金を払ってくれるなんて言われると不思議に思いませんか。

話をイチゴ狩りのお客さんの視点にずらしてみましょう。
イチゴ狩り。なんだか楽しそうです。
僕自身、小さな頃に何かを狩った記憶があるのですが、何狩りだったのか思い出せません・・・

でも、イチゴ狩り、リンゴ狩り、ぶどう狩り、どれも楽しそうです。
(行く機会はないけど)
さて、農家視点からすると一つの作業である収穫作業をなぜ楽しいと感じるのでしょうか。

あえて小難しく言うと、「作業を体験に昇華させている」のだと思います。
ほんと無駄に小難しい感じです。

作業と見なしているものを別の視点から「楽しいもの」として定義しているのです。
結果的にですが。

これは日常と非日常のスイッチでもあると思います。
普段、農家でイチゴ狩りをしている方が他の農地でイチゴ狩りをするとは思えません。
しかし、普段都会に住んで生活している人にとっては、完全に日常外の出来事です。
もちろん、非日常だからと言って、離島まで泳ぐ体験なんてしたくありません。
あくまで楽しい体験と思っているから、非日常であり、やってみたいと思うのでしょう。

変に深堀りして考えると、この「狩る」という体験自体が人間のDNAレベルで原体験なのかもと思ったりします。
はるか昔、ヒトという動物として野山の果実を摘み取っていた、
ということを遺伝子が記憶しているのかもしれません。ええ、適当です。

「狩る」→「食べる」と行動が連続しているし、
それを友達や恋人、家族など近しい人間で一緒に行う、という所にも意味を感じます。
特に親が子どもにさせたい経験は親自身が頭で考えている以上に、
遺伝的に無意識な思考が働いている可能性があります。
話はずれるけど、モンスターペアレンツみたいなものも本能の暴走だと思うんですよね。
理性が効かない。またはわざと理性を効かなくさせている。

体験を再定義するという意識

イチゴ狩りの話はこれくらいにして、本論へ。
視点を変える事によって、価値を生み出すことができる。
もっと言えば、価値を理解できる人が価値の意味付けを行う。

これが気付いたことです。
あるブログを読んでいて、イチゴ狩りにいくことを農家体験だと書いていました。
これが妙に引っかかったのです。
「確かに農家体験だ。てか、農作業やん。あれ?なんで作業にお金払うの?」と。

実は似たような現象はいくつかあります。
例えば、ゴミ拾いをするボランティア、放課後の小学校で生徒を教える大学生、遠くから雪かきにくる若者。
この方たちは、なぜ同じような内容のアルバイトではなく、上記の経験を選択するのか?

これは他の人から見れば、「作業」として認識させるものを「体験」として認識し、
それを積み重ねているからでしょう。
考え方としては「労働の対価」として金銭ではなく経験を得ているのだと思います。

イチゴ狩りにおいては、その体験にお金を払っている。
その体験を買っているのだ。(もちろんイチゴ代込みだけど)

一昔話題にのぼった雪かきボランティアは、ネット上の一部でバカにされていた。
しかし、そのボランティアも当事者にとっては意味があることなのだろう。

ある人にとってはただの作業が、ある人にとってはお金を出したい体験となる。
もちろん単純化しているが、これは非常に面白い現象である。
価値観は画一化なんて言われているが、そんなことはない。
既に価値観は多様化しているし、その対比の中で体験が商売になっている。
(どちらかというとボランタリー経済だと思うけども)

だから、僕は「自分が意味のないと思う事」が「世の中にとって意味がないこと」だと決して思わない。
セレンディピティという言葉がある。探しているものとは別の価値を見つける力、といった意味を持つ。
ベンチャー企業がサービスや商品の反響を見て、方向転換するピボットという言葉がある。
これらは本質的に同じことを指していると思う。


多様化した時代は、早急なジャッジではなく、一度置いてみることが大事なのかもしれない。
色んな人がそれをのぞきこみ、色んな使い方や色んなことを思う。
そこに思いもしなかった新しい何かが眠っているかもしれない。

うん、イチゴが食べたくなってきた。

2012/09/21

未来の学校って何だろう? The future school will be what?

ツイッターで思いつきを垂れ流していると、
このままでは脳が腐ると思い始めてきたので、文章を書こうと思い、久しぶりのブログへ。
書こうと思う事はいくつかあるのだけど、取りかかりまでに時間がかかってしまう。
そんなに難しく考えず、気軽にやろうと思い直したのです。

最近、新しく人と知り合う機会が増えてきました。
それもそのはず、住む場所が変わったのだから当たり前ですね。
ソーシャルメディアでつながっていない方もいるので書いておくと、
6月末に実家の宗像市に引っ越し、8月中旬に福岡市に引っ越しました。
なので、今の生活パターンになってから、1ヶ月くらいです。


で、タイトルの件へ。

未来の学校って何だろうかと最近ぼんやりと考えています。
そのきっかけとなったのは、ある体験と1冊の雑誌でした。


他県から来た小学生とキャンプをした時に、宗像市のことをあれこれと聞かれた。 その子は宗像の名産や観光スポットについて、僕よりも詳しかった。  僕だって地元だし、24年間いた土地なんだけど。彼はGoogleで調べたと言っていた。 自我を持って話せる小学校高学年に、本当のデジタルネイティブを感じた。そして、この子たちに公教育は対応しきれていないのではないかと疑問を持った。(facebookへの投稿より引用)

この小学生とのやり取り自体は、
「ああ、やっぱ最近の子どもってGoogleで調べるとか当たり前なんだなー」と思った程度でした。
しかし、先日Wiredという雑誌の「未来の学校」という特集を読んでいて、この体験と強く結びつきました。



この雑誌はぜひ読んでほしい一冊で、
特に教育や学習に携わる人、興味がある人は必読だと思っています(勝手に笑)
MITメディアラボの話を中心に、シンガポールのフューチャースクールなどの記事があります。
海外の教育へのICT活用はもうこんなに進んでいるのかと驚きました。
先進事例を読みながら、アタマに電撃のような刺激が走るとともに、
日本の教育が変わっていかない現状に恐怖に近い感情を覚えました。

教育へのICT活用は色んなところで叫ばれています。
イメージしやすいのは、デジタル教科書でしょうか。
学校で本の教科書を使うのではなく、生徒1人ひとりがタブレットを持って、
そのタブレットにいくつものアプリケーションが入っているような感じです。
デジタル教科書を始めとするICT教育には、賛否両論があります。
ただ、大局的に見ると、遅かれ早いかれデジタル教育は進んでいくと思います。
今教えている内容をICTというツールで教えるICT活用、
デジタル社会に対応するために必要な知識やリテラシーを学ぶデジタル教育、
この2つが主軸となるでしょう。

一方で、デジタルに浸りすぎると、弊害があるのでは?というのが
反対派の論です。もちろんメリットしかないという施策などはなく、
いかにしてデメリットをつぶすかという話だと思うのですが、そうはいかず。
デジタル化が進むシリコンバレーでは、以下のようなことが行われているそうです。


中学校のリポートはワード、プレゼンはパワーポイント、データの分析はエクセルが使われる。パソコンに内蔵されているソフトは、あくまで手段の一つにすぎない。宿題や課題に関しても、「コピー&ペースト」に対しては厳罰なペナルティーが待っているのは当然であるが、スカイプで友達に相談したり、グーグルで検索したりと、パソコンの利用は“教えられる”ものではなく、自然体で身に付くような仕組みになっている。

子どもたちは、ITをいかに使うかという道具の視点を学ぶそうです。
そして、デジタルではないアナログ視点の教育もまた面白いのです。

子供たちが通っている学校では、学校の裏庭に小さな農場(The Farm)があり、そこで動物を飼育して、野菜を栽培している。
 生徒たちはこの農場の運営を手伝い、そこでの収穫物を、毎週木曜日の放課後に開かれるマーケットで売り、売り上げを学校の活動に還元する仕組みになっている。裏庭の農場で小さな経済を学んでいるのだ。

1つのプログラムだけで終わらずに、全体のカリキュラムとして
子どもたちに必要なことを学んでもらうようになっているのでしょう。
この記事であったり、wiredを読んだりして、思ったことをその時こう書いてました。

そして、2つのことを思った。「デジタルではないアナログから学べること」を体験してもらう、そして、「デジタルをもっと使いこなし創造すること」に挑戦してもらう。大人は何かを教える立場から、子どもが何かを生み出す土台づくりへ移らなければならないのではないか。(facebookへの投稿より引用)

「“教わる”から“学ぶ”へ」というサブタイトルがあった。
世の中のデジタルへの変化をふまえ、この一言をしっかり考えてみたい。
それが「未来の学校」につながっているはずだと思うので。



2012/08/03

岡山大学が凄い広告媒体をつくったようです

大学も独立行政法人となり、財源をどうやって確保するかを考えていらっしゃいます。
知的財産の活用や大学発ベンチャーなどもそういった流れがあるかと思います。

そんな中、岡山大学が凄いことを始めました。
大学内で「広告媒体」を開発したのです。

下記をご覧ください。
















そう、「給与明細の裏面」です!
岡山大学の給与が払われる日や枚数が書いてあります・・・
けっこう衝撃ですね。

気になるお値段ですが、













月25,000円だそうです。
印刷製版20,000〜30,000円かかるそうです。
約55,000円で、岡山大学の教職員等5,600人にリーチできるようです。
1人当たり10円。

興味がある方は広告出稿してはいかがでしょうか?
給与等支給明細書への広告募集 −国立大学法人岡山大学

2012/05/16

Think ホタテヤさん@たこやき大学


今日(昨日)は例の如く、たこやき大学というイベントに参加してきた。
たこやき大学は簡単に言うと、鹿児島の薩摩川内市にあるたこやき屋「たこ阪」で
店主とその女房役レクタスオさんが語る様子を再現したイベントである。

ちなみに昨年末も参加している。その時の様子はこちら
Think たこやき大学

今回はスペシャル版。
阿部学 × たこやき大学

阿部学さんは、青森が誇る知る人ぞ知る有名人である。
http://www.rakuten.co.jp/simokita/

この方がなぜ凄いのか?を読み解く会が今日のイベントであった。
しかし、いつもの如く脱線(拡散)と収束を繰り返し、
(おそらく)一部の聴衆はそのスピードに置いてきぼりだった。

だって、隠れた前提がいっぱいあるんだもの。
参加条件は1500円と指定図書から1冊買っておくというもの。
けれど、内容を聴く限り「熟読して来てね」という感じだったわけです。
ちなみに、ここは笑うところですね。
僕は面白かったので良かったんですが、あの話は人によっては「???」ってなるんじゃないかなーと思った次第。まぁ、そこまで折り込み済みなんでしょうけど。


というわけで、印象に残った話を記憶を頼りに少しばかり書いてみます。

最初は、指定図書をなぜ選んだか、今日の話とのつながりを解説。
僕が持っているのは、
「グレイトフル・テッドにマーケティングを学ぶ」
「次世代コミュニケーション・プランニング」
「戦略PR」(旧版)
ちなみにグレイトフル〜は、前回のたこ大の後にすぐ買っている。
たこ大の志向と合っているのは、喜ぶべきか・・・・


「どの文脈に商品を置くか」という言葉がすごく残っている。
最近、○○が状況に埋め込まれるにはどうなればいいか、みたいなことを考えるので。
自然ではないものを自然にするために、背景に近い色を選択する。みたいな。
PRを宣伝と訳さないことに関してはとても同意で、パブリシティの意味でPRという言葉を
使ってた自分を反省した。パブリックリレーションズなので、広報という意味で使っていたが「公的な関わり」という意味だとちょっと「広く報じる」とは違うなぁとも感じた。

戦略PRは、PRという言葉の前に戦略がつく。
つまり、一つ上の上位概念があるPRを指す。
「どういう存在として世に出て行くか」を決めて、どんなPRを設計するかが
「戦略PR」だと言える。

というか、PRを誤解している人は「とにかくメディアに出たい」みたいな感じで
PRしてほしいというが、そもそも「どう見られたいか」がない場合が多い気がする。

つまり、そこを理解していないクライアントが多ければ、
自然と戦略PRをやるようになるのでは?と思った。
まぁ、やらざるを得ないといった方が正しいのかもしれない。

某島田紳助氏の自己プロデュースからは
x軸とy軸の話が出た。これは非常に面白かった。
世間というx軸に一点しか接しないのがy軸。
つまり、一発屋。
ヒットメーカー(定番)はx軸に合わせて波のような形のy'軸をつくる。
ホタテヤさんの場合、入射角が激しいパルス型。
例:ホタブラ、ホタテパン、ホタテロなど

ここらへんの話から「遊びしろ」の話へ。
簡潔に言うと、余白って大事だよねという話。
いかにして未完成な部分をうまくコントロールするか。
あえて難しく言うと、アンコントローラブルな部分をどうコントロールするか。
ここで、MBCのTEGE2が出てきました。
番組というコンテンツに、ツイッター参加や裏てげといった遊びを含める。
ホタテヤさんの例に戻すと、「阿部さんは遊びしろが異常に長い」との結論へ。
これは図示しないとわかりにくいんですけど、映像撮ってたんでアーカイブに期待を。

そして、複雑系ネットワークの話へ。
「要は3つやねん」と言いながら、2つの話で終わってましたねんな、たこはんさん。
1.スモールワールド。2.スケールフリー。3.・・・・ん?・・・


スモールワールドで閉じた世間を表現しているのは、なるほどと感じました。
6次の隔たりって実は前提条件があるんだなと。
それは異種との関わりのような弱いネットワークだと思うんですが、
改めてソーシャルメディアの盲目性というか自分が選んだ情報しか流れていないものの怖さを感じた次第。

スケールフリーの話では、おたこはん、レクタスオさん、ホタテヤさんのネットワーク構築のタイプについて。
ごまたまごの2つサンプルがマッチしてました。
これも図がないと言葉だと伝えにくいので、アーカイブに期待。
口コミの広がりを想像する時に、こういうネットワーク理論(というか図解)って活きるんだなぁとか思ったり。
ホタテロがもしホタテ2つだったら、6つだったら。
桁が違うことが実は大きい?という話は笑えつつも真実かもしれない。
10個なら頑張って食える。
でも、20、30ってなると・・・
というか、60個で生ホタテって、どう考えても知り合いをかき集めて食べるしかない(笑)

阿部さん曰く「感謝の気持ちで送っている」と回答に
天から与えられた才能をただただ感じました。
って、そんな会じゃないやん。とか思いながら。

ホタテヤさんの日常業務的には
1つのディスプレイで注文や発注を行い
1つのディスプレイでtwitterやfacebookを見ているらしい。
まるでデイトレーダーです。

そこから、「ホタテヤさんは仕事をしているのか?」みたいな話になり、
ホタテヤさんは奥さんの方をしきりにチラチラ見ていました。

そこに阿部商店のガバナンスを垣間見ました。
それはともかく、「実は仕事1時間で、あとは遊び7時間なのでは?」という疑惑(?)が浮上。

「楽●の分析を見るヒマがあったら、遊ぶ」
という凄まじい発言が飛び出し、会場は爆笑の渦へ。

遊びの時間は濃縮された1時間の仕事のためにある。
なんというクリエイティブ。
これは真似できるのか????
もはや抽象化も一般論への抽出も困難を極める状況。

最後は「堪え性」の話へ。
ここでは、レクタスオさんのピー発言が連発。
文章には出来ません。
おたこはんがなぜ主夫をしているか?の話から、
マネジメントと教える→できるのサイクルの話へ。

インセンティブで働く労働、ロマンで働く、ミッションで働く。
ここらへんは色々思う事はありますが、けっこう納得。

「若者が即効性のある結果を求め、それがない場合挫折を感じる」
といった短期インセンティブのみで動くと、無駄なことやすぐに結果が出ないことに
取り組めなくなる。みたいな話だったかと。
んで、モノを捨てれない人は堪え性があって、そういう人は
「結果と原因が意図しない結びつき方」をした経験がある場合が多い。
なので、短期インセンティブにとらわれない。みたいな感じ。
これ、伝わらないだろうな(笑)

僕の解釈としては、
目的として設定したこととは違う「意図しない結果」が出ることがあり
それに価値を見いだせるか、ということだと思う。

エンジニアリングの対比であるブリコラージュ的な発想も近い。
エンジニアリングが作る料理を決めて食材を買うというトップダウン型であるのに対し、
ブリコラージュは冷蔵庫のありもので作れる料理を作るというボトムアップ型である。

ここらへんの考えをもう少し振り返って考えてみたい。

最後に質疑応答でのやり取りを。


アカホシ「ホタブラはなんでつくったんですか?」
ホタテヤさん「えっと、なんでだっけ?」(奥さんの方を見る)
ホタ妻さん「えっとね、『ホタブラって作れる?』って聞いてきたよね」
ホタテヤさん「そうだ、ホタブラ(のアイデア)がおりてきて
「作れる?」って聞いたら・・・」
ホタ妻さん「作れるよ」
ホタテヤさん「じゃあ作ろう」
ホタ妻さん「うん、作ろう」
会場爆笑。

おたこはん曰く「このやり取りにはまったくロジックがない」
レクタクオさん曰く「2人とも天才」

本日のたこやき大学もおいしゅうございました。
ちゃんちゃん。

2012/04/24

起業体験プログラム① 主体的に決める経験

一昨年、昨年の2年間、ある高校と協働させていただき、学校内で起業体験プログラムを実施した。
一言で言うと、文化祭の模擬店を株式会社のしくみを使って行うという内容である。

実は、こういった取り組みは日本のいくつかの地域で行われている。
公益社団、商工会議所、企業が経営する学校など色んなパターンがある。

運営を考えると、販売体験に絞ったり、最初の使えるお金を固定したりすると
プログラムはスムーズにいきやすい。

ただ、それでは面白くない。
というか、できるだけ忠実に再現してみたい。
その方が生徒はよりリアルな社会を体験できるはず。
仕組まれた学びよりも、偶然の経験の方が価値があるかもしれない。

そう思い、プログラムは縛りをできるだけ減らした。
「どんな商売をするか」
「いくら資金を調達するか」
「何にいくら使うか」
「株主への配当はどれくらいにするか」
「商品ラインナップはどうするか」
「商品の材料はどこから調達するか」
「社員への給料はどうやって計算するか」
などなど。

ほとんど自分たちで考えて決定するようなプログラムにした。
つまり、答えを教えてなかった。

ただし、答えを出すための方程式を教えるようにした。
例えば、来客数の予測。
いわゆるAIDMA的な考え方もあるし、
去年の売上を平均単価で割って推測するとか。
(※説明は噛み砕いてます)

まぁ、飲み込みの早いこと。
高校生の学習能力というか、学習スピードの速さ。
学生時代、勉強会サークルの代表をしていた僕は
入ってきたばかりの大学1年生が「どうやったら意見を言えるようになるか」
をよく考えて、彼らの成長をどうサポートするかを試行錯誤していました。

その記憶と照らし合わせると、
高校1、2年生の吸収力に驚くばかり。
純粋にその場にいることが楽しいし、面白かった。

一番嬉しいのは、彼彼女らが「自分で考え、決める」ようになること。
もともと考えているのですが、決める事ができないのが最初の印象でした。
正確に言えば、「思う」ことはあれど「考えていない」ということかもしれません。
決めてはいるけど、主体的に選択したのではなく、周りにあわせる、消去法で選ぶなど。

しかし、このプログラムはその選択方法では早晩行き詰まるのです。
なぜかというと、自ら選択肢を作らなきゃいけないし、変な選択をすると自分たちが困るからです。

実際に彼らは困っていました。
チームで壁にぶつかり、リーダーは自分がどうすればいいのか悩んでいました。
体育祭のような明確なルールや目標もない。
受験のような点数やノウハウもない。
これは、働いている人間の多くが一度は感じたことのあることではないでしょうか。

意図せずとも、結果としてドラマが生まれる。
それはこちら側が用意したことではなく、真剣にぶつかり合い、
考えて行動する彼らの思いから生まれます。



なんとなく書き始めた記事ですが、書いていて
僕自身もちゃんと振り返らないといけないなと思いました。

2012/04/10

NPOを退職しました




早いもので、もう4月になってしまいました。
あと1ヶ月で、鹿児島に来て丸2年になります。


3月末をもって、NPO法人ネイチャリング・プロジェクトを退職しました。
2010年6月に入社したので、1年10ヶ月在籍していたことになります。
僕は2010年3月に大学を卒業し、九州の各地域を回る放浪の旅に出ていました。
我が事ながら冷静に考えると、バカで向こう見ずだなと思います。
今、僕がそんな人に出会ったとしたら、その行動を肯定できるだろうか?と時々思い返します。



その旅の最中、鹿児島でたまたまお酒を交わした大学時代の先輩がいました。
その先輩は大学時代に僕が所属していた学生団体の2つ上の先輩。
在学期間は被っているが、団体への在籍期間が被っておらず、
僕が学生のときに2、3回会った程度でした。

しかし、彼の凄さはいくつかの実績と資料に残っていました。
僕の中で、学生時代のうちに彼に追いつくことは一つの重要な目標でした。
そんなこともあって、鹿児島で飲むことになり、嬉しさもあり、
こんなアホなことをしていて叱られるのではないかという怖さもあり、
待ち合わせに向かった記憶があります。
実際には、詰められました(笑)
しかし、そこで「鹿児島に来る気はあるか?」と一声かけてもらったことが
今の僕につながっています。


僕が旅に出ていなければ、
鹿児島を通過していなければ、
ツイッターをしていなければ、
あの飲みがなければ、
僕はここにいません。

それは人生全てがそうなのかもしれませんが、
住む場所を変えることはとても大きなことでした。
そんな偶然の出会いが僕が鹿児島に来るきっかけだったのです。


それから約2年。
生まれ育った福岡から、無縁の鹿児島という地へのIターン。
新卒で、NPO法人へ就職。
そこで、ソーシャルビジネス事業推進部という部署に所属し、
事業を立ち上げることに従事していました。

こう書けば、とてもかっこよく見えるかもしれません。
でも、実際はそんなにかっこよくも、簡単でもなかったと思います。
友人や後輩が普通に会社へ新卒入社し、愚痴を言っていたり、辞めたり、
いつしか夢を語らなくなったり、下積みをしていたり。
そんな状況から相対的に考えると、僕は良い道を選んだのかもしれません。
ただ、その比較はあまり重要ではないかもしれません。

なぜなら、良い選択をしたかどうかよりも、選択した道をより良いものにしていくことが
本質的には大事だと思うからです。
人生は、リハーサルがなく、常に本番。
「あの時、こうしておけば・・・」という議論は気休め以外の意味を持ちません。
人は持っている武器で戦うしかないし、選んだ道をより良くすることしかできない。
選んでない道を想うことはリタイア後の楽しみにでも取っておけばいい。
僕はそう考えています。

僕はこちらに移ってくる前日にSNSで日記を書いていました。
そこには鹿児島に来ることを決めた理由を記していました。

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決めた理由はいくつかあって
(1)5月始めにある起業家の方とお酒を飲む機会があり、
「プレイヤーが少なすぎる」という話を聞いたこと。
(2)そのNPOが非常にビジネス志向でベンチャー気質だったこと。
(3)縁も所縁もない土地でゼロから挑戦してみたかったこと。
(4)地方をまわって日本の危機を肌で感じたこと。
(5)リスクを取ってチャレンジしても、最悪死なないと悟ったこと。
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今になって読み返すと、若さ溢れる感じや世間知らずな感じがして、若干の恥ずかしさがありますね。
NPOやソーシャルビジネス(社会的課題をビジネス手法で解決すること)は一つのトレンドになりつつあります。
トレンド、本当でしょうか。確かに多くの予算がそういったところについています。
しかし、NPOやソーシャルビジネスという言葉や手法にとらわれてしまうのは非常に危険だと思います。

戦後の日本が復興していく中で生まれた企業には、公的な精神や公益を志した企業が少なくありません。
イギリスの小さな政府から始まったNPOやアメリカの過度な資本主義との対比として存在するソーシャルビジネスは、同じ文脈を持たない日本であれば、違う解釈が必要です。

大事なのは、何を為したいかであり、何を期待されているかだと思います。
株式会社やNPOは所詮乗り物でしかない。


「社会を変えたい」
「社会問題を解決したい」
こういった言葉はとても聞こえが良い。
そして、そこに想いがあれば、なお素晴らしい。

しかし、その社会とは何を指すのだろう。
問題とは何のことを言うのだろう。
何がどうなったら解決なのだろう。

そこに具体的な言葉や解釈がなければ、具体的な行動は生まれない。
つまり、何もよくならないし、何も解決されません。
当の本人も不幸になるし、周りが幸せになるとも思えません。
だからこそ、加熱するソーシャルビジネスブームは怖さも伴っているのです。

このように考えながら、自分自身が何をしていくのかを問い続けていきます。

この2年間で、様々な教育に関わらせて頂きました。
・高校生の起業体験プログラム
・大学生の就業力育成ワークショップ(発想力/課題解決/企画など)
・基金訓練生のソーシャルビジネス概論
・小学生向けの出店体験ゲーム
・中学生向けの学習支援サポーター
・地場企業の後継者育成塾のカリキュラム素案作成
などなど。

自分の立場でそれをやってもいいのだろうか?
自分には荷が重すぎるのではないか?
間違った方向にミスリードするのではないか?
様々な不安や葛藤がありました。

しかし、自分が悩むことは本質的に大事ではありません。
対象となっている方々がいる。受益者にとってベネフィットがあるか?
受益者が受益者たるように何をすべきを問い続ける姿勢が大事です。


その相手がより学ぶには?
良い気付きを得るには?
その瞬間だけでなく、活かせる何かを持ち帰るには?
その積み重ねを、真摯に考え実行することだけは貫き通せたと思っています。


「教育」と書きましたが、僕の中ではあまり教えるという意識はありません。
先にも書きましたが、意識していることは
「どうやって学んでもらうか、考えてもらうか、行動してもらうか」といったことです。

educationの語源は、ラテン語の「e(外へ)ducere(導く)」であるそうです。
教育とは知識を与えることではなく、
学習者の力を引き出すことであるとも定義できます。
※一方で、状況が違えば、詰め込みも大切だと思っています。
そう考えると、一般的な定義とは異なる意味の教育もあるのではないかと思うのです。
もっと個々の可能性を引き出せるような形の教育というものが。


駆け抜けた2年間でした。
ここで得た経験、お世話になった方々とのご縁をもとに
教育や学習、人の成長に関して関わっていきたいと思います。


桜が三分咲きだった4月2日に書き始めた記事ですが、
4月10日になってしまいました。
今宵の雨で桜の花は散るでしょう。


さて、新しい一歩だ!

2012/03/07

4月から新入社員になる人への5冊


昨日、4月から(いわゆる)中小企業に入社する大学4年生に、オススメの本を教える機会がありました。
彼はTen-Labでインターンをしているのだが、ガッツがあって成長意欲があり、とても頼もしい。
卒業まで残り少しだけど、これからの伸びにとても期待しています。
そして、他の1年生の成長や変化も素晴らしい。
人が自分の可能性に気付き、挑戦し変化していく様子を観る事はとても嬉しいし、
僕自身にとっても刺激になる。
インターン生と対峙しながら、そんなことを思っている訳ですが、
せっかくなのでちょっと僕なりに新入社員向けにいくつか本をセレクトしてみる。
(誰か読んでるかもしれないし)
あえて、仕事術系の本を選択しているのには訳がある。

僕は新卒でNPOという選択をした人間であり、
その環境で一番困ったのは「仕事の仕方」であった。
もちろん、数名の上司や先輩から色々教えてもらったり、仕事のやり方を盗む機会はあった。

ただ、日本の新卒という現状において、
優れた「仕事の仕方」は一流企業にあると言って間違いではない。
何を持って一流というの?と思うが、その定義の詳細にはあまり意味がないので省く。
(実際に僕が参考にしていた上司はDBJ、リクルート、ADK出身など)

という訳で、「4月から入社した時に仕事の仕方がわかるかどうか不安」
な人に向けた“仕事術系”のオススメの5冊を載せてみる。
なので、あえて古典を読め!名著を読め!という感じではない。


1.残念な人の思考法
付加価値につながらない無駄なことがよくわかる。
残念な〜シリーズは何冊か出ているが、僕が買ったのはこの本のみ。



2.入社1年目の教科書
社会人として大事な基本が50個の章に分けられていて読みやすい。
この本の中にもオススメ本が紹介されています。



3.脱・社内奴隷
僕のマーケティングの先生の師匠の本(らしい)
「仕事の3階層」の部分だけでも読むべき一冊。



4.図で考えるとすべてまとまる
図解表現の基本をおさえる本。
マッキンゼー流図解の技術とどちらにすべきか迷うとこですが、安いのでこちらを特にオススメ。



5.どんな人にも大切な「売る力」ノート
営業の基本として読んだ一冊。
他にもかばんはハンカチの上に置きなさいなど。営業系はあまり読んでないので、他に良い本があるかも。

2012/03/05

鹿屋な一日

今日は鹿児島県鹿屋市で行われているデザインマーケットにいってきました。
天気は曇りと、あまりよろしくなかったですが、色々見れて聞けて楽しかったです。
(この小学生レベルの作文(笑))

去年も、このデザインマーケットというイベントには行ったんですが、
夕日の写真しかブログにはあげていませんでした。

今回行こうと思っていたのは、サクラ島大学の「まちづくりで大切なこと」トークライブへの参加。
前々から、一度お話を聞いてみたかった田北さんの話を伺えるチャンスだったので。


話は全部聞けてないのだけど、人の感性や感情を踏まえたプロジェクト実践者だと感じた。
ご本人も仰っていたことなのだけど、九大で講義をするようになってから言語化(理論化)しているが、本来は実践がメインとのこと。
聞いていても同じような感じを受けた。
特徴的なのは、プロセスのうまさとデザインへの落とし込み、そしてそのマネジメント。
特に利害関係者のうやむやな“まち”における合意形成は見事なお話だった。
それが上記の「人の感性や感情」を指している。
機会があれば、じっくりお話を聞きたいと強く思った。


鹿屋の商店街は去年より人でにぎわっていた。
5年目を迎え、定着してきたのだろうか。


色々と買いました☆





その後、一年ぶりに行ったaraheamがやっぱり良かった。
こういうお店が鹿児島市内にあればいいのになー。
卓球できるし。お茶もできるし。


そして、最後にとんかつ竹亭鹿屋本店。
僕が鹿児島に来て、一番おいしいカツでした。これはマジです。


来週、サクラ島大学の遠足があるようです。
僕は仕事で行けないけれど、まだ若干空きがあるそうです。
興味ある方はお早めに。

2012/02/01

ユーザーとして感じたLOCONDO( @LOCONDO_jp)の体験デザイン

LOCONDO(ロコンド)というサイトで靴を買いました。
この購入体験が面白く、よく考えられていると思ったので書いてみます。

LOCONDOは靴のECサイトである。
特徴として
・日本最大級の品揃え
・送料無料
・99日間返品無料
の3つが大きく取り上げられている。

詳しくは、この記事なんかを見るとよくわかります。
「ネットで靴は売れない」に挑む ロコンドの徹底的顧客中心主義【秋里英寿】

とりあえず、いちユーザーとして興奮したので、早く伝えたいと思います。


①おしゃれな箱が届く。

②開けるとロゴが!
(よく見ると、QRコードや「OPEN」と描いてある)

③さらにあけると、なんと「返品ガイド」が置いてある。

④左側には、段ボールのふたが「シューマット」になっているとの説明。

⑤右側には、「シューマット」の具体的な使い方がビジュアルで描いてある。

⑥商品の上には、返品用の用紙。

⑦そして、商品。

⑧そして、履く。
⑨ー1.合わない場合は返品。
⑨ー2.合う場合はそのまま。

⑩とりあえずシューマットに載せる。
おまけ:段ボールの組み立てで見えなくなる部分に「THANK YOU!」が。


まとめると、
「ユーザーに商品が届いてから履くまでの体験が見事にデザインされている」
と思ったのです。


実は、僕は去年の春に一度LOCONDOで靴を買ったことがあります。
夏に向けて、ビルケンシュトックのサンダルが欲しかった僕は
ツイッターで
ビルケンシュトックのサンダル欲しいなー。鹿児島でどこかに売ってるかな?」
とつぶやきました。

そこにたまたま、LOCONDO創業者メンバーの一人である@TomoYasudaさんからRTが来ました。
そのツイートがキッカケで、ビルケンのサンダルを買ってみたのです。
その時はサイズが合わなくて、返金は大丈夫かな?と思いながらも返品。
もちろん、ちゃんと返金されていました。

今考えると、この時の「購入体験」と「返品体験」によって、僕のなかに
「LOCONDOは信頼できるし、便利だし、箱がおしゃれ」
というイメージが生まれていたのだと思います。

そして、今回僕は革靴を探していました。
が、鹿児島でどこに売っているのやらわからず困っていたのです。
(僕はIターン2年目で土地勘がない)

そのとき、たまたまメールボックスに届いていたLOCONDOのメールを見ました。
ファイナルセールらしいので見てみたら、革靴がかなり安い様子。

しかし、ここでちょっと迷いが生まれるのです。

「安くても、ダサイor安っぽいつくりだったら、どうしよう」
「(自分の)足の甲が高いから、(いつも履いている)表記のサイズでも合わない可能性がある」

靴は足の形と合うかどうかがかなり大事で、
どうしても実際に履いてみて確かめないと良いかどうかわかりません。

なので、「ECでは靴を売りにくい」という常識があったのだと思います。
そんなユーザーの心理に対して「99日間返品無料」というサービスが心理的なハードルを少し下げてくれます。
ただ、「そんなに返品が簡単で大丈夫なのか」と普通は思います。
ロジスティックスは大変でしょうね。返品があるから在庫は変動しやすいだろうし、
返金があるのでキャッシュフローも難しそう。僕にはちょっと予測がつかないです。

ただ、マーケティングとしては、この返品可能は凄く効果的だと思います。
僕の例で行くと、一度目の購入は売上につながっていませんが、その体験がきっかけで
二度目の購入に至っています。一度目のコストは二度目の購入に活きていると言えるでしょう。
結果的に、返報性の原理が働いているのだと思います。

この売り方は
「心理的ハードルが下がり買った人の金額+返品したがリピートで買った人の金額>返品可能でかかったコスト」
で成り立つのだと推測できます。

「販売促進としての返品可能」と、「長期的な顧客獲得コストとしての返品コスト」
を両立させているのだと思います。


僕は高校生の時から、インターネットで買い物をしており、靴を買った事が何度もあります。
しかし、そのとき、自分が履いているブランドと同じブランドで買っていました。
ブランド内でだいたいサイズは共通だからです。
しかし、今回はまったく知らないブランドの靴でした。

実際の店舗では、気軽に色々と試し履きはできません。
しかし、オンラインで注文し、返品OKであれば、何足でも試し履きが出来ます。
実はLOCONDOは新しい靴との出会いを生み出しているのかもしれません。

昨日、「ロコンドで靴を買った」とつぶやいたら、
わずか4分後に公式アカウントからお礼のRTが来ました。

前述したメールマガジンやソーシャルメディアの活用により、
ユーザーとのコンタクトポイントをしっかり活かしているのだと思いました。
直接対面しなくても、ホスピタリティを感じることができる。

サイトのインターフェースから、細かいツイートの対応まで
ユーザーの“体験”をベースに、コミュニケーションをデザインしているのかなと感じました。
LOCONDO、凄い会社です。ファンになりました。


最後に、LOCONDOの去年の母の日キャンペーンがほっこりしたので紹介します。

5月の母の日商戦では、“母の日に靴”という新しい提案とともに「5足贈ろうキャンペーン」を実施。母親が似合いそうな靴を5足贈って、そのうち1足を選んで残りは返品してもらうという企画だが、中には1足に絞り切れずに複数点を購入するケースもあったようだ。

2012/01/26

【就活の話】 エントリーシート小話 志望動機編

【この記事は大学生を読者として想定しています】



昨日に引き続き、エントリーシートについて書いてみます。
前回書いた中でも少し触れていますが、マトモなエントリーシートを書こうとすると
自己理解を深め、客観的に整理する必要があります。
実は、面接はその内容をしっかり話すだけだったりします。
ESとそのESを書くにあたっての背景情報があれば、話す材料は揃っているという意味。
もちろんコミュニケーションのルールは守りつつ、話すのですが。
(急にバーと喋りだす学生とかいますが、普通に考えてNGでしょ)
結局、その「マトモ」さのレベル感が暗黙知になっており、
求められる文章の精度やそのプロセスの意味が伝わっていないのだと思います。

面接落ちてへこむ人がいますが、そんなに落ち込む必要はないです。
・その会社が欲しいタイプと違う
・その会社が欲しいレベルに達していない
のどちらかですので。

特にタイプの部分は大きいです。
サークルやバイト先で合う合わないがあるのと一緒。
職場というコミュニティに存在するカルチャーと合う合わないは非常に大きな要因です。
もちろん業態にもよるけど。

なので、落ちるパターンとして
1、基準以下
2、職能としてミスマッチ
3、職場としてミスマッチ
のどれかなんでしょう。

これらの評価はスキルがベースになっていますが、ウィル(意志)の視点もすごく大事。
長期的な雇用を会社側がイメージする場合、この人をどう成長させていくかというイメージがある。
「コイツは色々足りないけど、伸びそうだ」というキャラクター採用があるのです。
説明するのは難しいですが、愛嬌って仕事をする上で色々大事な気がします。
言い換えれば、人間的な魅力、周囲に可愛がられる人格、みたいなもの。
まぁ、そういう逆転満塁ホームランもあるかも、くらいで。余談です。


ちょっと面接の話になってしまったけど、選考の話ということでまとめ、
志望動機についての話へ。

まぁ、こういうものはしっかり自己整理できていれば、自ずと見えてくると思います。
見えない人は会社の知名度やブランドに憧れているパターンが多い。
それか会社のことをよく知らないくせに、自分に嘘をついて、志望しているだけ。

「自分の過去の経験、志向性、夢、やりたいこと、目指す姿、ミッションetc」

「会社が求める役割、欲しい能力、これからの会社のビジョン、仕事内容etc」
を、結ぶだけなんですけどね。

後者がわからないのは、
単純にリサーチが足りないか、リサーチ能力が低いだけだと思います。

これだけtwitterやらfacebookやらがあって、調べられないのは、
自分のITリテラシーの低さを露呈しているだけです。

若い世代はソーシャルメディアやソーシャルネットワークくらい
ちゃんと使っていないとダメだと思います(僕も若い世代だけど)

働き始めると経験豊富な先輩方にはほとんどの分野で勝てません。
なので、時代に応じた最先端のツールくらい使っていて当たり前だと思います。
それは「若い人」の最低限の武器。
あんまりソーシャルバカやライフハックバカになるのもどうかと思いますが。

話が逸れまくってきたので、志望動機に話を戻します

_____________________________

■志望動機
そもそもその会社で働きたくないと動機の精度はあがらない
つまり、本当に働きたいと思わない会社は受けるな。
自己PRを作っていく過程で自己理解は進むので、それと同等に
会社のリサーチにも時間をかける。
(効率的な人は時間少なくてもいい)

もし僕がサントリーで働きたいなら、
・Googleで関連キーワードで検索して、10ページ分読み込む
・ホームページを完全に全部読む(出版されている本も全部)
・twitterで社員や関連アカウントを全部フォローする
・twitterやfacebookで社員にアポをとり、訪問する(お茶→ランチ→飲み)
・仲良くなって、ESや面接のアドバイスをもらう
くらいする。

地理的な問題もあるけど、いくつかはネット環境にあれば、誰でもできること。
つまり、条件的には揃っているが、最後の「やる気」が足りない。
もしくは、そういうことができると「想像」できていない。

このやる気と想像力の欠如は非常に大きい格差につながっている。
WEBのフラットさ、フェアさは実は新しいスタンダードを作っているんだなと再確認。

自己PRがしっかり練られていれば、会社のリサーチをやるだけだと思います。
そもそもどの業界から調べればいいかわからない、みたいな人がいますが、
そういう人は仮説思考を読んで勉強してください。
“あたり”をつけて、調べる・考えるスキルがないと、常に縦断爆撃的な調べものをしてしまいます。
結果、効率が非常に悪い。仕事の成果が低くなる。

要約すると、
「この会社かも」「この業界かも」
と思ったところを深堀して、調べていく。
直感でもいいし、それがイヤなら
「なぜ、これに興味があるか」と一二段深めていけばいいと思います。

上記のように調べまくって、自分の琴線に触れなければ、
それには興味がないのでしょう。
根性オンリー系の大人は「やってみないとわからん!」と言いますが
そんなことはないと思います。
なぜかというと、「やってみると、どんなことでもそれなりの良さがあるから」
やった“こと”が良いかどうか、ではなく、やったことの“意味”づけに本質があるのです。
楽しいと思えば、何でも楽しいし、逆もしかり。

そうやって、自分の思うように引き込む悪い大人もいます
(本人の利害が一致しているならかまわないけど)
なので、事前にしっかりクリティカル(複眼的)に考えることが必要だし、
時には感性や直感を頼ることも必要。
これは左脳的アプローチの限界を右脳的アプローチで補強するという意味。

「御社の製品が好きで、それに関わりたいと思いました」
みたいなのはやめましょうね。
それを読んだ人は
「あ、じゃあ引き続きお客様でよろしくっす!」
としか思わない。というか、読まないよね。

つらつらと書きましたが、振り返ると

「想い」と「考え」を言語化し、構造化し、紡ぐ。
という文章作成の視点。

ビジネスにおける基本的な視点を意識したコミュニケーション
という社会人としての準備・心構え。

が大きな要素かと思いました。
と偉そうに書いている割に、この文章の構成は適当です。
また何か思いついたら、書くかもしれない。

2012/01/25

【就活の話】エントリーシート小話

【この記事は大学生を読者として想定しています】

正直言って、就職活動の話をブログには書きたくない。
1、僕自身は就職活動でそんなにうまくいっていない
→内定辞退1社、最終面接落ち1社くらいしかマトモな戦績がない
2、小手先テクニック論や細かい情報の集積になりがち
→就活についての文章は妙に現実的で、視点が偏っていてクリティカルではないものが多い


だが、何かちゃんと伝えないとヤバい!と思ってしまったのである。
それにも理由があって、鹿児島の大学生と接していて、
①あまりにも情報が少なく、視野が狭い
②かなりベーシックなテクニックすら知らない
③だが、潜在能力的には低いわけではない
という風に感じたわけです。

さらにこの前参加したある就活支援のイベントがあまりにもひどかった。
くだらなさすぎて、途中で帰ったほど。

じゃあ、お前に何かできんのか!って思う訳ですが、
まぁ、なんかできることがあるだろうと。

僕は学生時代、2年間ほど就職活動をしていました。
3年生の時からはじめ、4年生の4月末に教育業界の某社から内々定を頂きました。
ただ最後の最後で「俺は受験戦争を促進したいわけじゃねぇ!」と思い、辞退しました。
他にも色々と理由はありますが、これがけっこう大きな理由。
ちなみにエントリーシートや面接では、
「新規事業がやりたい。大学生のキャリア教育をやりたい」と言っていました。

回り回って、今の僕はそういう教育で事業を起こそうとしています。
大学卒業して、放浪したり、NPOに就職したり、特殊な人生を進んでいますが、
軸はあまりブレていなかったのかもしれません。

話を戻すと、大学4年から5年にかけての就職活動中に
“実績作り”も兼ねて、就職活動支援もしていました。
不思議ですよね。就活しているヤツが他の学生の支援もしているわけです。
そういえば、その時NPOでインターンしたり、BARの一日店長したり、
合宿イベントをしたりもしていました。常にバタバタだったような。
今考えると、忙しいことに没頭していた気がします。一種の自己陶酔だったのかも。

そのとき、就活支援は2つのことをしていました。
・外部講師を呼び、講義してもらい、ワークショップするセミナー
エントリーシート、グループディスカッション、面接の3講座(参加費3,000円でした)
・友人が運営していた就活支援団体のお手伝い
模擬面接やエントリーシート、グループディスカッションのアドバイスなど。

なので、添削スキルやダメだし・フィードバックがうまくなっていきました。
ちなみに「先輩風を吹かせたドヤ顔アドバイザー」にはなりたくなかったので、
人事用の本を読みあさり、会社側の視点を勉強していたりも。

そんな訳で、上記の経験をもとにいくつか就職活動に関する記事を書く予定です。
前段が長くなってしまったけど、それではエントリーシート(ES)の話へ入ります。

___________________________________

そもそもESは自分の代替するものである。
夏休みの宿題的に書き上げるものではない。
何故かというと、ESは選考や面接で使われるだけでなく、
入社してからも使われる資料であるから。
なので、じっくり書く必要がある。
特に文章を書かない人は推敲を重ねるべし。


基本的な型として、
・自己PR
・志望動機
があり、だいたい400文字程度で作っておくのが必須。というか前提。

文章の共通する評価ポイントとして、下記の2つが大きい。
・文章としてのクオリティ
構成が適切か(結論→理由→具体例)
文の質が高いか(語彙・表現)

・内容の適切さ
主張と設問との整合性があるか
主張の一貫性は保たれているか


簡単に言うと、
「読みやすく、読み応えがあり、設問の意図に沿った文章であるか」
ということ。

さらっと書いたけど、実は難しい。
だが、諦める必要はない。時間をかければ、何とかなる。

質の高い文章を、しかも自分のことについて書くとなると、
必然的に自分との対話や経験の棚卸しをすることになる。

それを自己分析と呼ぶのだが、「自己分析」と先に名付けると
抽象度が高すぎて、肌感覚で理解できず、ノウハウ本に頼ってしまう人が多い。
効果は多少あるかもしれないが、向き不向きがあり、あまりおすすめしない。

ちなみに、ESの質はだいたい2秒くらいでわかります。
模擬面接をした時に、10枚くらいのESにさっと目を通しただけで、
「あ、この人良さそう」とか「この人、即席だな」というのがわかるんです。

なぜかというと、
・文語になっていない(口語に近い)
・文字数をできるだけ埋めるような文章
・メッセージが不明確
・書いてある単語の端々に“浅さ”を感じる
みたいなとこです。

最近、僕はインターン生の面談をしている時に
大学1〜4年生が書いたESを読む機会があったんですが、
「あ、この人は本読んでいる人だな」というのが一発でわかりました。
大学名とか学年とか抜きにして。

文章に関しては、
「大量のインプットがアウトプットの質につながる」
のは間違いなさそうです。

では、もう少し具体的な内容について書いていきます。

■自己PR
自己PRは、自己紹介とは違います。
「私は○○という人間で、御社の○○で○○という形で役に立ちます」というPRです。
PRといっていますが、パブリックリレーション(広報)というよりは、
プロモーション(販売促進)ですね。正しくはセルフプロモーションなのかも。

このプロモーションは2つのポイントがあります。
私はどんな人かという事とあなたの会社でどう役立つかという事。
これは世の中の商品やサービスとまったく同じ。
「自分がどんな人かを知るにはどうすればいいか?」ですか?
そんなのは知りません。自分で振り返るか、周りの人に聴くかすればいいと思います。

僕の場合、自分に関するキーワードを100個くらい書き出して、
グルーピングしながら整理して、まとめました。
※キーワードは他人から言われたこと、自分で思う自分、キャラクターや性格など
ありとあらゆる視点から箇条書きしていきました。

誰かの名言で「親しい友人を5名思い浮かべてください。それがあなたです」
というような文があったと思いますが、これは真を突いているなと思いました。
そういうやり方もありかもしれません。


そして、後者の「会社でどう役に立つか」について。
こればっかりは会社にもよるのですが、基本的なスタンスとして、
・ルーティンとして新卒を採る会社
・不定期で新卒を採る会社
の二つにわかれます。

ルーティンで採っている会社は
・辞める社員が多いので、採らなければならない
・会社が成長しているので、人を増やさなければならない
・会社の成長を予測した上で、人を育てておきたい
みたいなところです。

不定期で採っている会社は
・辞める社員がいても、会社自体が停滞ぎみで採る余地がない
・新卒のフレッシュさを会社に取り込みたい(つまり閉塞感がある)
みたいなところです。

ここらへんは全然MECEじゃないです。
しかし、上記のポイントがわかるだけでも、欲しい人材像はまったく変わってきます。
いわゆるソルジャー(すぐやめてもいい兵隊みたいな社員)が欲しい会社、
将来の幹部候補生が欲しい会社、新しいアイデアが欲しい会社。
色々あるのです。

まぁ、多くの会社が「欲しい人材は?」と聞かれると
「自分で考え、行動するリーダーシップのある人材」みたいなことを言います。
この回答自体、抽象的で優等生的な感じがしますが、実際は違う。

例えば、本当の意味で「自分で考える人」は相手が上司であろうと
クライアントであろうと意見対立を恐れないと思います。
さて、それを御社は許容する器がありますか?と。

ということで、実際は欲しい人材像は違うんですよね。
そういうのは、会社の人の話だけでなく、業界動向、会社の資料などから
読み解かないといけない。こういうスキルは大事だと思います。


長くなってきたので、このへんで。
「志望動機」についてはまた書きます。

2012/01/21

新年の挨拶と見せかけて、マラソンの話

年が明けてから、ブログを書いてないことに気付いた今日この頃です。
というわけで、あけましておめでとうございます(遅い)


たまたま久しぶりに話した友人が僕のブログを読んでいるということで、
まぁなんか恥ずかしい訳です。
別にオープンな場所で書いている訳だから、誰が読もうと勝手な訳ですが、
「誰も読まないんじゃないの」と思っているから、なんか気恥ずかしい。


そういえば、森の奥地の裸族にイスを与え、しばらくしてからイスを取り上げたところ、
その民族がモジモジし始めた、みたいな話がありました。
その民族はイスによって隠れた体の一部がまたあらわになることを恥じたそうです。
「恥ずかしさ」とは、当たり前からの引き算なのですね。
この話が本当なら、民俗学者がエスノグラフィーで発見したのでしょう。ふむふむ。


いつから、僕のブログは小話で始めるようになったのか?と思いつつも、何か書いてみます。


年が明けて早いもので、もう20日もすぎています。
あ、そう言えば、2週間前の1月8日に指宿市で行われた菜の花マラソンに参加しました!
なんとか完走(ほんとは完歩)しました。
記録は9時間4分。


ちょっと時間かかり過ぎですね、これは。
去年、ノー練習で、足の裏のマメに耐えられず、25Kmでリタイアしました。
今年はその悔しさを噛み締め、リベンジしたる!と決死の思いで望みました。
完走しないならば、指宿の藻くずとして消えてやる!
そんなサムライ魂を胸に、僕は南下していったのです。
東洋のハワイを目指して。




一応練習はしました。
と言っても、ランニングというか、ジョギングというか、ウォーキングというか。
マラソンの3週間前から、突貫工事的に定期的な運動をしていました。
最大の誤算は帰省した際に、食べ過ぎたこと。
年末に減らしたカロリーが一気に増えました。
コツコツ返していた借金が急に増えた感じです。
これは食欲という名の悪魔に勝てなかった僕が悪いのです。


もはや言い訳の文章みたいになってきた。
まぁ、何はともあれ完走したのです。
一応20Km地点くらいまでは、走ったり歩いたりをしていました。
が、20Km過ぎた当たりから、どうも足の筋肉が疲れ始めたのです。
しょうがないので、早足に切り替える。
まぁ、豚汁がおいしいんです。マジで。
(菜の花マラソンはボランティアの人たちが豚汁をつくって配ってくれるのです!
きゃあ、なんて素敵なまち!!)
あ、ちなみにブタジルです。トンジルではありません。
ブラジルでもありません。ブ・タ・ジ・ルです。
計3カ所で頂きました。
(同じ場所で2杯食べたのは、ここだけの秘密です)


足の痛みがひどくなり始めた25Km付近。
僕は持ってきたサロンパス(皮膚に優しいタイプ)を貼りまくりました。
貼りまくりまくりすてぃですね。はい、ごめんなさい。


しかし、昔、捻挫した左足首がいたい、いたい。いたいよう。
そして、去年と同じく、足の裏にマメができそうな感じ。
とにかく応急処置的に、サロンパスをマメのところに貼ってみた。
いや、冷静に考えると訳がわかりませんが、とりあえず貼ってみました。
つばつけときゃ治るだろ!的な考えです。気合です。根性です。


ただ、振り返ってみると、
これが僕が完走した最も大きな要因かもしれません。
サロンパスが密着していたからか、マメが拡大せずに現状維持のままにすることができたのです。


あれ、これちょっとした奇跡じゃないか。
そんなことを思いつつも、もう30Km過ぎた当たりから、あちこちがおかしい。
ちなみに25Km地点でも、股関節がつりそうになり、その時ぼくはツイッターで
「股関節エマージェンシー」という意味不明のツイートをしています。


アホみたいな距離を歩くと、筋肉や関節が炎症をおこし始めます。
歯が痛い時の感覚に似てる。ジーンとくる痛み。
そんな痛みが続くので、定期的に休みながら進みました。


だが、僕には絶対に負けられない戦いがそこにある。
そう、35Km地点に午後5時までに辿り着かなければ、強制リタイアなのです。
もう一度言おう。強制リタイアだ。
任意同行ではない、強制なのだ。


いったい何の権限があって、そんな実力行使に出るのか。
ともかくルールはルール。
僕は35Km地点の山川駅に17時までに辿り着く必要があったのだ。


そこには夢の潰えた者たちの残骸が。
そう、そこには収容バスと疲労困憊の参加者が溢れているのです。
まるで、ゾンビの群れに混じったかのような疲労感が漂っています。
みんな歩き方がおかしい。体の一部がおかしくなり、それでも前にすすむ様。
それは心を打つシーンでもあるが、ふざけるとただのしかばねのようだ。としか感じない。
事実、周りで歩いている人が「私たち、ゾンビみたい」と言っていて、吹きそうになりました。


違う!わたし、ゾンビなんかじゃない!
生きてる!


ジブリのキャラのように叫びたい気持ちでいっぱいでした。


結局、そこから7.195Kmに90分もかかったのです。
この7Kmは地獄だった。
道路の規制は解除され、マラソンの雰囲気は一転して日常に変わりつつある。
さらに日が暮れていく。


でもね、そこには応援してくれる人たちがいるんだよ!
ああもう指宿大好き!(冗談じゃないです)
小ちゃい子どもやおばあちゃんとハイタッチするわけですよ。
(スタート時なんか、「そんなん恥ずかしくてするかい!」とか思ってた)


40Kmを過ぎた当たり。
最後にまだ天使がいたのです。
そう、ブタジルゾーン。


このね、豚汁ね、泣きそうだった。
温かくて、ハートまであったかくなっちまったぜ。
「ああ、もう今死んでも後悔ねぇわー」みたいな。


もう完走した時には感動しなかった。
この豚汁がゴールだったんだよ。
ああもう、みんな好き。ラブ。


みたいなハッピー状態。


そんなこんなで、マラソンが終わってから何も運動していませんが、何か?
※この記事は酔っぱらいながら書いています。



ランサー