2010/09/01

傍を楽にするということ、働く

ある文章が刺さった。

目の前の机も、その上のコップも、耳にとどく音楽も。ペンも紙も、すべて誰かがつくったものだ。街路樹のような自然物でさえ、人の仕事の結果としてそこに生えている。
教育機関卒業後の私たちは、生きている時間の大半をなんらかの形で仕事に費やし、その累積が社会を形成している。私たちは、数え切れない他人の「仕事」に囲まれて日々生きているわけだが、ではそれらの仕事は私たちになにを与え、伝えているのだろう。

たとえば安売り家具屋の店頭に並ぶ、カラーボックスのような本棚。化粧板の仕上げは側面まで、裏面はベニア貼りの彼らは、「裏は見えないからいいでしょ?」というメッセージを、語るともなく語っている。建売住宅の扉は、開け閉めのたびに薄い音を立てながら、それをつくった人たちの「こんなもんでいいでしょ?」という腹のうちを伝える。

やたらに広告頁の多い雑誌。10分程度の内容を一時間枠に水増ししたテレビ番組、などなど。様々な仕事が「こんなもんでいいでしょ?」という、人を軽くあつかったメッセージを体現している。それらは隠しようのないものだし、デザインはそれを隠すために拓かれた技術でもない。

また一方に、丁寧に時間と心がかけられた仕事がある。素材の旨味を引き出すべく、手間を惜しむことなくつくられる料理。表面的には見えない細部にまで手の入った工芸品。一流のスポーツ選手による素晴らしいプレイに、「こんなもんで」などという力の出し惜しみはない。このような仕事に触れる時、私たちは「いい仕事をするなあ」と、嬉しそうな表情をする。なぜ嬉しいのだろう。

人間は「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを、つねに探し求めている生き物だと思う。そしてそれが足りなくなると、どんどん元気がなくなり、時には精神のバランスを崩してしまう。
「こんなものでいい」と思いながらつくられたものは、それを手にする人の存在を否定する。とくに幼児期に、こうした棘(とげ)に囲まれて育つことは、人の成長にどんなダメージを与えるだろう。

大人でも同じだ。人々が自分の仕事をとおして、自分たち自身を傷つけ、目に見えないボディーブローを効かせ合うような悪循環が、長く重ねられている気がしてならない。

しかし、結果としての仕事に働き方の内実が含まれるのなら、「働き方」が変わることによって、世界が変わる可能性もあるのではないか。
この世界は一人一人の小さな「仕事」の累積なのだから、世界が変わる方法はどこか余所ではなく、じつは一人一人の手元にある。多くの人が「自分」を疎外して働いた結果、それを手にした人をも疎外する非人間的な社会が出来上がるわけだが、同じ構造で逆の成果を生み出すこともできる。
問題は、なぜ多くの人がそれをできないのか、ということになるが、まずはいくつかの働き方を尋ねるところからはじめてみたい。

自分の仕事をつくる 西村佳哲著 プロローグより

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