2011/02/05

「居場所」と「出番」

問題というのは、問題解決サイクルから外れたところで発生し、
次第に固定化していき、規模の拡大化や深刻化が進む。
社会に置き換えれば、その問題を解決しても当事者以外が得にならないケースや、
お金にならない社会インフラ分野でパブリックサービスが行き届いてないケースが存在する。
誤解を恐れずに言えば、社会問題というのは社会的に排除され困っている環境・人々がいるということである。

インクルーシブ・ビジネス、排除された人々を再び社会に包括する事業。
僕はこれがソーシャル・ビジネスと呼ばれているものだと考えている。
(定義に関する論争には意味がないと思うが、自身の定義として考えおくべきなので)

先週のかごしまソーシャルビジネスフォーラムにおいて、
株式会社エンパブリックの広石さんの講演を聴く機会があった。

そこで「居場所」と「出番」という言葉を知った。
僕は頭に電撃をくらったような衝撃を受けた。
言葉にならないというか、言葉にできないというか、今もその言葉が理解できていたのか不安になるほどの心が揺れ動く感動とも衝動とも言えぬ驚きだった。

内閣府の「新しい公共」には以下の一文がある。

国民すべてが意欲と能力に応じ労働市場やさまざまな 社会活動に参加できる社会(「出番」と「居場所」)を実現し、成長力を高めていくことに基本を置く

この「出番」と「居場所」は新しい公共担当であった仙石元官房長官がいろどりの横石さんから聞いた言葉がもとになっているという。

いろどりは、過疎地域のおばあちゃんたちが葉っぱをつまものとして売っている会社である。
いろどりのある上勝町は医療費がほかと比べて圧倒的に安い。
時間を持て余したお年寄りに働く“居場所”と活躍する“出番“をつくったことが大きいのではないかと推測できる。

居場所とはなんだろうか?
家、職場、学校、自分がいる場に「居場所」はあるのだろうか?

出番とはなんだろうか?
「自分の出番だ!」と思える機会が日常にあるのだろうか?
誰でもできること、何の為かわからないこと、ただ過ぎる日々、
「自分の出番」と無縁な世界に「居場所」はあるのだろうか?

その人にしか出来ないことなどない。
しかし、その人らしさを活かせることは必ずある。
そして、その活かせることが付加価値になり、仕事になることがある。

弱き人々を排除してしまう社会システムにおいて、「弱者」という定義を外し、
その人たちが持っている可能性や力に目を向けて、「出番」という機会をつくり、
そこに「居場所」をつくる。

綺麗事かもしれない。
しかし、世の中を良くするとはそういうことなんだろう。
そのために泥を掻き分け、啜る勇気があるかどうかだ。
それを為すことが自分自身の居場所をつくり、出番をつくる。

ああ、もっとしっかりやろうよ、自分。

自彊不息。

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